「視点」2002.5
印刷屋の憂鬱
印刷屋にとっては苦境の時代が続いている。不景気で、広告などの商業印刷物が減ったり、本そのものの売れ行きが鈍ったりということもあるが、それ以上に紙媒体から、インターネットへの情報媒体の変化が進んでいるのだ。インターネットの発達によって、紙媒体が駆逐される、それは未来予想としてはさんざんに語られてきたことだが、現実にはまだまだ遠いことだと思っていた。人類の文明とともにはじまった紙媒体の優位はそう簡単には覆らないと信じて疑っていなかったのである。
地方紙の片隅にちいさな記事がでていた。「公報83年の歴史に終止符 紙からインターネットへ」。紙媒体からオンライン媒体への変化を報じる小さな記事だった。公報は国で言う官報にあたる。地方自治体の公式な情報、条例の制定や入札の公告などを載せるだけの一般にはほとんど目にふれない地味な印刷物である。しかしなくてはならないものだった。公報がなくなるなどということは誰も想像はしていなかった。ましてや、前例を重んじるお役所のこと、百年近くも前例を踏襲してきた印刷物を廃止できるはずがないと思っていた。
しかし、いきなりの廃止である。ひとつには、悪化を続ける自治体財政に鑑み、経費節減をめざしたということもあるようだ。紙を使わなければ、すくなくとも紙代と印刷代は節減できる。紙を使わないことで、微々たる物ではあろうが、資源の節約にもなるだろう。率先して、経費節減や環境対策をすすめねばならないお役所にとってみれば、象徴的な案件となっているのかもしれない。
確かに、文字だけの地味な情報はインターネットにこそ向いているのは確かだ。公報の中で、本当に必要なのは、読む人にとってはごく一部なのである。たとえば、入札公告を読みたい人にとっては、市立図書館の利用時間変更に関する記事は何の意味もない。インターネットならば、入札公告なら入札公告だけを抽出して呈示するようなことが簡単にできてしまう。これは使い方によっては非常に便利だ。
考えてみると、こと情報伝達ということに限れば、印刷というのは非常に無駄が多い。公報に限ったことではないが、ある特定の情報をピンポイントで供給するのは印刷がもっとも苦手とするところだ。新聞や雑誌を考えてもらえればいい。全ページくまなく目を通すという人はまずいないだろう。興味のあるところしか読まないはずだ。にもかかわらず、新聞には欲しくもない情報が、必要な情報と隣り合わせに並んでいる。本当に必要な人が必要なだけ読むというのであれば、雑誌の記事を1ページでも2ページ単位でもいいからバラバラに分解して、それぞれ記事単位で購入するというかたちになったはずだ。実はインターネットのホームページというのは、これに近いことをやっている。インターネットでやっているような個別のバラバラな記事の配布を印刷は、採算を度外視すれば、不可能ではないが、駅頭のキオスクで、「この記事とこの記事とあの記事」というように紙片を個別買いする情景を思い浮かべていただければ、その非現実性を納得していただけると思う。
印刷というシステムは量産効果によってはじめて情報のシステムたりえていたのである。情報を保存し、伝達する手段として、手書きシステムと印刷はそれほどの違いがあるわけではない。1対1の情報伝達ならば、ノートに書いたメモも印刷物もそれほど能力に違いがあるわけではない。印刷物は、同じ物を大量に複製することで、はじめて大量伝達という情報システムとして機能したのである。グーテンベルグの活字印刷術発明以前は、大量(といってもグテンベルグの発明当時の印刷部数は100冊程度はあったのだが)の文書配布そのものがなかった。同じ情報を多数の人が共有するということが、そもそもありえなかったのである。グーテンベルグの印刷術発明が、聖書の流布を促し、宗教改革のひいては、近世市民社会を産み出す遠因となったとはよく言われる。情報の大量配布という情報システムの変化は社会そのものを変革させたのである。
印刷術の発明以前、情報は書写という方法に頼るしかなかったから、情報の塊である「本」は極めて高価だった。情報の所有、流通コストが極めて高かったことになる。これが印刷術の発達で、情報の所有流通単価は劇的に低下した。量産すればするほど安くなるから、逆に、少々無駄であろうがなかろうが、読まれようが、読まれまいが、とにかくまとめて大量に刷るという技法が考え出された。これが新聞や雑誌である。私見だが、私は、この印刷の大量生産効果こそ新聞や雑誌というような媒体の存在価値ではないかと思っている。新聞に多種多様な記事が載っているのは、幅広い教養の伝達などという高貴な目的のためではなく、複数の記事をまとめて大量に印刷する方が、個別記事の情報単価をさげられるからだ。先にに書いたように、個別の記事配信システムを印刷でやろうとすると、個々の記事の販売価格は、新聞よりはるかに高くなってしまうだろう。
しかし、たとえ、どんなに量産効果を追求したとしても、印刷物が紙に刷られる限り、紙にまつわるコストからは逃れられない。まず、紙それ自体のコストが生じる。今となってみれば、紙の価格自体は、印刷価格のうちそれほど大きい部分を占めているわけではない。それでも、万をこえるような部数を刷るものだと、紙代は印刷積算の最重要項目だ。1950年代以前は紙そのものの価格が他の物価と比べて極めて高く、印刷会社というのは紙の相場で儲けるというような側面があったぐらいだ。その上、紙の上に印字するための印刷機システム、紙に印刷するための製版システム、そして紙を運搬するための輸送システムというように、紙が存在するばかりに、情報は余計な費用をまとってきたといえる。情報流通とは紙という物理的媒体を運搬することに他ならなかったのである。ここでは本来、情報という無形の物を取り扱うべき産業が、紙という質量のある物理的実体を流通させる産業となっていた。
インターネットは、この紙システムを根本的に変えてしまった。情報の発信コストをほとんど只にしてしまったのである。サーバーの価格も、通信ネットワークの価格も、それから発信できる記事あたりで割れば、極めて安価である。紙という重荷から解き放たれたとき、情報は情報それのみとして流通できるようになった。
しかし、このことは今、大変な軋轢を生んでいるとも言える。今まで、情報は紙の上に載っているという前提で、出版や印税というシステムがなりたっていた。情報の代金を紙の代金に転嫁して徴収していたのだ。情報を読みたければ、紙の束(本)を買わざるをえなかったのである。それに対して、実体のないインターネット上では情報に対して料金をとるのが極めて難しい。もちろん、料金徴収のためのさまざまな試みがなされているのは承知しているが、コピーの技法はいくらでも考え得る。究極的には、画面をキャプチャーして、配布されたら、対抗のしようがないではないか。
私はここで、料金が徴収しやすいから、インターネットではなくて、印刷物の方が良いと主張したいのではない。紙にまつわる産業に従事するものとして、紙そのものをなくしてしまおうという、昨今の動きには、穏やかにおれないのは事実である。しかし、抗ってもしかたがない。経済原則は、同じ機能を果たすなら、低価格の方に流れてしまうのは当然だろう。これから印刷と情報はどのような関係となっていくのかは、予測するのは難しい。しかし、ただひとこと、情報といってもインターネットに向く物、印刷に向く物とあるだろうし、文字コンテンツの作成には、印刷業者は500年の歴史を持っている。印刷屋のもっているノウハウをインターネット時代にいかに活かすかを考えて行くしかあるまい。
初出:科学技術振興機構発行「情報管理」
メニュー画面へ戻る