上代文学会

(1) 大会案内

平成21年度 大会案内
期  日平成21年5月23日(土)・24日(日)
会  場國學院大學 渋谷キャンパス 〒150-8440 東京都渋谷区東4-10-28
電話 03-5466-0211(辰巳正明研究室)
・渋谷駅(JR山手線・地下鉄・京王井の頭線・東急各線)から徒歩約13分
(JR埼京線)新南口から徒歩約10分
・都営バス(渋谷駅東口バスターミナル54番乗り場 学03日赤医療センター行)
(「国学院大学前」下車(運賃170円)
日  程
― 23日(土) ―
開会挨拶(午後2時〜午後2時10分)
國學院大學渋谷キャンパス百二十周年記念2号館1階2104教室
学会挨拶  上代文学会代表理事 内藤 明
会場校挨拶  國學院大學学長 安蘇谷正彦
研究発表会(午後2時10分〜午後5時10分)
中国貴州省南部侗族の祭祀と祭詞-薩歳の祭り調査報告-
立正中学校・高等学校非常勤講師
舟木勇治
(司会 共立女子大学専任講師 遠藤耕太郎)
『古事記』に見る老人像
台湾国立政治大学助理教授 鄭家瑜
(司会 國學院大學兼任講師 小林真美)
万葉宮廷歌人田辺福麻呂の行路死人歌論
山梨学院大学准教授 塩沢一平
(司会 日本大学教授 梶川信行)
『延暦僧録』と大安寺文化圏
大東文化大学教授 藏中しのぶ
(司会 青山学院大学教授 小川靖彦)
学会賞授賞式(午後5時10分〜午後5時20分)
上代文学会賞授賞式
古事記学会奨励賞授賞式
上代文学会理事会・総会(同時開催)(午後5時20分〜午後5時50分)
懇 親 会(午後6時〜午後8時)
会場 國學院大學渋谷キャンパス若木タワー18階 有栖川宮記念ホール
会費 7000円
― 24日(日) ―
研究発表会(午前10時〜午後4時30分)
國學院大學渋谷キャンパス 学術メディアセンター1階 常磐松ホール
《午前の部》
万葉歌の黄葉・花の散るのを惜しむ表現
武庫川女子大学非常勤講師 青野美幸
(司会 フェリス女学院大学准教授 松田 浩)
『古事記』中巻における垂仁記
愛知淑徳大学助教 中野謙一
(司会 日本大学非常勤講師 加藤 清)
十七世紀中期における風土記受容-下河辺長流を中心として-
東京経済大学専任講 師 兼岡理恵
(司会 早稲田大学教授 松本直樹)
――昼食――
○古事記学会総会(昼食休憩時)
《午後の部》
譬喩と問答-巻11・12の編纂-
國學院大學兼任講師 城・陽子
(司会 近畿大学教授 村瀬憲夫)
「心ぐく」- 坂上大嬢詠の方法 -
実践女子大学教授 池田三枝子
(司会 奈良大学教授 上野 誠)
近年出土の歌木簡と人麻呂歌集の書記を中心に
武庫川女子大学教授 毛利正守
(司会 専修大学教授 西條 勉)
あさかやま歌木簡の出土状況と再発見の経緯(付)「歌一首」墨書土器
大阪市立大学教授 栄原永遠男
(司会 皇學館大學教授 橋本雅之)
○閉会挨拶(午後四時三十分〜午後四時四十分) 古事記学会代表理事 毛利正守
発表要旨 中国貴州省南部侗族の祭祀と祭詞-薩歳の祭り調査報告-
舟木勇治

 日本における神祀りの言葉は祝詞と呼ばれる。その最も古い例は、『延喜式』巻第八所収の二十七編の祝詞である。この式祝詞は、個々には成立年代や文章量、目的は様々であるが、そこには一定の型を想定することができる。それは、いわゆる天孫降臨神話の文脈から語り起こし、現在の祭りの空間に保障を与え、祀る対象の神を讃美し、五穀豊穣などの具体的な願いを述べるという展開の型である。
 本発表では、このような神を祀る言葉の形成過程を明らかにするために、現在調査中である中国貴州省南部侗族の祭祀の実際および祭詞の内容を報告し、そのあり方を考察する。
 侗族は貴州省一帯の山岳地帯に壮大な棚田を開き稲作を生業としている。神樹や井戸、橋などの他、様々な自然神を崇めるが、これとは別に女神を民族の最高神として祀るという点に大きな特徴が認められる。この女神は、「薩歳」と呼ばれ、春節をはじめとした重要な年中行事や、災害・疫病流行などに際して必ず祀られる。その薩歳を祀る際に唱えられる祭詞には、薩歳が薩歳として女神になるまでの経緯を述べる詞章が含まれている。侗族は「史詩」と呼ばれる伝承を保有しているが、その中の薩歳に関する伝承が圧縮され、祭詞に組み込まれているのである。これは式祝詞が冒頭に天孫降臨神話を持つことと同様、自己の来歴を確認して、祭の場を聖化する機能を有していると考えられる。
 また、いくつかある薩歳の祭詞の一つには、薩歳が村に入ると、災いは淵に入り、渦に飲まれ、河に流されて消滅してしまうことを述べる詞章が確認できる。これは式祝詞の大祓詞において、人々の罪が河に流され海に飲み込まれて消滅してしまうという展開と、発想において通底するものであろう。
 ただしこれらの共通性は、直ちに相互の影響関係を意味するものではない。東アジアという枠組みの中で、神を祀る言葉の形成過程を考える視点として意味づけられるのである。
(なお、発表にあたっては、スクリーンを用い、実際の祭祀の模様を紹介したい。)

『古事記』に見る老人像
鄭家瑜

 中国の四大長編小説『紅楼夢』には「劉姥姥」という老女が登場した。この老女は物語の主役ではないが、王煕鳳、賈母など、主要な作中人物とは重要な関わりを持っている。それと同時に、賈府の外部から賈府の生活を見るという「第三者」の役割をも演じている。すなわち、「劉姥姥」という人物を通じて、作者の賈雪芹の作り上げた人物像の一端が伺われ、『紅楼夢』という小説の仕組みが一層明らかになるのである(『紅樓夢綜合研究下篇紅樓夢評論』岑佳卓編著、棣芳文庫・台湾、一八八五、『紅樓夢人物立體論』歐麗娟著、里仁書局・台湾、二〇〇六、『紅樓夢人物論』王昆侖著、里仁書局・台湾、一九八二などを参照)。
 同じ原理において、『古事記』には赤猪子、置目老媼、面鯨老人、御火焼の老人など、様々な老人と老女が登場した。これらの老人の多くは物語中では脇役として存在しているにもかかわらず、豊かな人物特性を持っている。彼らの持つ性格と働きを考察することは、『古事記』の人物像の解明に繋がるのは言うまでもないが、各物語の深層にある意味や『古事記』全体の構造を理解する上でも重要な意義を持っていよう。
 したがって、本稿では『古事記』における人物像を考察する作業の一環として、『古事記』に見られる老人の用例を取り上げる。老人達の言動、発話内容、遭遇した出来事に対する反応、その容貌などを分析し、『古事記』における老人像の問題を考えてみたい。さらに、その老人像が天皇統治の世界を構築しようとする『古事記』にはどのような役割を果たしているかを明らかにしたい。

万葉宮廷歌人田辺福麻呂の行路死人歌論
塩沢一平

 万葉歌人田辺福麻呂の行路死人歌(「足柄の坂を過るに、死人を見て作る歌」9・一八〇〇)は、調使首の行路死人歌(「備後の国の神島の浜にして、調使首の、屍を見て作れる歌」13・三三三九〜三三四三)と関係が深いことが、つとに指摘されている。用字の面では、調使首の歌は、古屋彰氏が指摘するように、福麻呂と用字が共通する五つの歌群の一つである。調使首の歌は、福麻呂が筆録に大きく関わっていた可能性が高い。
 また、下田忠氏や三田誠司氏らの指摘するように、(日)死人の環境の描写、(月)死人の現状の形容、など五つの構造からなり、比較が可能なほど、両者は近似している。とすると、福麻呂は、調使首の行路死人歌にかなり依存し、当該行路死人歌を作成したと考えるのが穏当となる。
 ところで、行路死人歌は、一般に、行路という異常な地において死を遂げた人を鎮魂する目的で詠まれる。福麻呂も、「過足柄坂見死人」という題詞にあるときに、鎮魂目的で、調使首の歌と発想や構造が大いに近似するものを、足柄の地で、福麻呂は詠作することができたのであろうか。気になるのは、当該歌には、土地に関する記述が「恐きや 神の御坂」のみであることである。行路死人歌は、伊藤博氏がいうように国讃めから発するものである。柿本人麻呂の石中死人歌(2・二二〇)や日本書紀の伝聖徳太子作歌(紀一〇四)など他の行路死人歌が遭遇した土地を篤く歌うのとは対蹠的である。
 宮廷歌人柿本人麻呂は、伊藤博氏が指摘するように、宮廷サロンの要請を受けて「石見相聞歌」を作成した。福麻呂も類似した環境によって、宮廷歌人の余技として当該歌を創作した可能性はなかったのだろうか。また、その環境とはいかなるものであったのだろうか。この点を、万葉集の編纂や調使首の歌の出所などの問題と関係づけながら論じる。

『延暦僧録』と大安寺文化圏
藏中しのぶ

 鑑真に随行して来朝した弟子の唐僧思託は、来朝後の生涯にわたって三度、鑑真伝の撰述を手がけた。これを仮に私に「鑑真伝三部作」と称しておく。
  (日)天平宝字七年(七六三)五月六日鑑真遷化〜宝亀二年(七七一)以前成立、思託撰   『大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝』三巻(散佚)。
  (月)宝亀十年(七七九)二月八日、淡海三船撰『唐大和上東征伝』一巻。
  (火)延暦七年(七八八)二月四日、思託撰『延暦僧録』五巻(散佚)。
 これら三伝は、わが国最初期の高僧伝であり、いずれもその中心に鑑真の伝を位置づける。(日)『大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝』は上巻に鑑真の中国における師僧の伝を立てた集成僧伝の性格をあわせもち、(月)『唐大和上東征伝』は鑑真単行の伝、(火)『延暦僧録』は日本における最初の集成僧伝とされる。
『龍論抄』によって知られる『延暦僧録』の原貌は、全五巻と目録一巻を備え、一四二伝を収録するというかなり規模の大きいものであった。その構成は、巻第一に「高僧伝」「従高僧伝」(現存6/原撰7)、第二に「菩薩伝」(現存7/原撰10)、第三は欠(現存0/原撰23)、第四に「沙門伝」(現存4/原撰58)、第五に「智明僧伝」(現存4/原撰14)「居士伝」(現存12/原撰30)を立伝する。
『延暦僧録』第二「菩薩伝」を貫く王法・仏法をふたつながら体現する天皇菩薩の思想は、第五「居士伝」にも対応する。「居士伝」に立伝された人々は在俗の仏教徒であり、律令官人でもあった。そのなかには、石上宅嗣・淡海三船、吉備真備をはじめとして、内外両典に通じ、学問の道に携わった学者兼文人兼官人の性格をあわせもつ者もいた。こうした人々のネットワークと知的体系が「玄奘三蔵を軸とする長安西明寺の文学と学問の体系を継承する奈良朝の文学と学問の共通基盤(大安寺文化圏)」を形成したものと考えられる。
 本発表では、鑑真伝三部作を手がかりとして「大安寺文化圏」の様相をあらためて検証し、長安西明寺もまた、その一角をなす初唐・太宗の宮廷文化が、奈良朝の文学と学問に体系的に継承されていたことを論じる。

万葉歌の黄葉・花の散るのを惜しむ表現
青野美幸

 『万葉集』では「もみじ」を題材に歌が詠まれる時、「紅葉」と表記される一首を除き、「黄葉」と表記される。これは漢籍の影響であり、その影響が表記というかたちで表れていることは、先行の研究により、すでに明らかにされている。しかし、「黄葉」を題材とした歌に表現面では漢籍の影響を強くみることはできない。反対に漢籍にみられる表現にとらわれず、自在に詠じられるのである。それが、「散る様が美しい」と詠まれた歌である。
 「黄葉」・「梅」ともに他の植物歌と異なり、このような「散る様が美しい」とする歌が存在し、そこに新たな美意識が構築されていることがうかがえる。この新たな表現が生み出される前提となったのが、「散ってもよい」と詠まれた歌ではないかと考える。「散ってもよい」と表現され、特異ともいえる歌は『万葉集』中に数首みられる。その「散ってもよい」と詠まれる歌は、「梅」・「黄葉」・「卯の花」を詠んだ歌であり、『万葉集』中、「梅」は四首、「黄葉」は二首、「卯の花」では一首である。
 本発表は、散り乱れる様相を盛りを過ぎた状態とみて詠まれた歌と相対するように登場した、散りゆく様も美しく、それも盛りの状態であると賞美する歌の成立について考察を試みようとするものである。先にあげた三種の植物を詠んだ歌以外にはそのような歌はみられない。この三種類の植物だけ、「散ってもよい」と詠まれる点に注目し、なぜそのように詠まれるようになったのか、これらの植物に共通する特徴的性格をとらえて、こうした表現が成立し、「散る様が美しい」という表現に展開していったのか、その理由を検討してみたい。

『古事記』中巻における垂仁記
中野謙一

 本発表では、『古事記』中巻の語ろうとする〈歴史〉のなかで、垂仁記の果たしている役割を明らかにしたい。
 まず皇位継承史においては、系譜上第三の皇子にすぎない景行が次代の天皇となる次第を説明することが求められているはずである。そして、第一の皇子である品牟都和氣命の皇位継承権の消失を語る際に、沙本毘古王の反乱物語が重要な意義を担っていることは確かだろう。しかし、兄に与した沙本毘賣命に対して、垂仁が愛を貫いている以上、この物語のみで品牟都和氣命の皇位継承権が失われたことにはならないのではないか。応神が氏女所生の宇遅能和紀郎子を愛し、後継者に指名した例もあるから、
 沙本毘賣命への愛がその子にも及び、品牟都和氣命を後継者とする意思を垂仁がもちつづけたとしても不自然ではない。景行の皇位継承が決定するのは、垂仁記末尾の「其大后比婆須比賣命之時」と考えねばならないのではないか。垂仁死後に大后の摂政期間を設定している点で、垂仁紀との構想の相違が顕著になっているが、景行の生母を大后とすることにより品牟都和氣命即位の可能性を否定するのが垂仁記なのである。
 右のような皇位継承史に絡めつつ、国家形成史を語っていくのが『古事記』中・下巻であるが、中巻の主題たる王土の拡大に関する話が垂仁記にはみえない。しかし垂仁記では、崇神記で果たされた大物主神の祭祀を承けるように葦原色許男大神の祭祀が語られているほか、同じく崇神記で殉死が始まったことを承けて石作や土師部を制定したと語られている。皇子女に対する説明記事としてみえる、印色入日子命による造池や倭比賣命による伊勢神宮拝祭も含め、これらは崇神記・垂仁記を貫く構想のもとにあって国家形成史の一角を担っているといえる。以上により、垂仁記は『古事記』中巻の皇位継承史・国家形成史から外れたものではなく、そこでしかるべき役割を与えられたものであると考える。

十七世紀中期における風土記受容-下河辺長流を中心として-
兼岡理恵
 下河辺長流(寛永二〜貞享三 一六二五〜一六八六)は、近世前期において、地下歌人の歌集『林葉累塵集』を編纂するなど革新的役割を果たした歌人であるとともに、『万葉集』を中心とした古典研究を行った人物である。契沖をはじめとして、契沖の弟子であった今井似閑なども長流を師と仰いでいたことが知られる。
 この長流を風土記の関わりという観点から見た時、長流にとって風土記とは、それ自体は研究対象となり得ず、あくまで『万葉集』研究における補助資料という位置づけであった。たとえば賀茂別雷神社三手文庫所蔵「萬葉古事并詞」は、『万葉集』中の語句に対して諸文献を用いて注釈を施したもので、寛文元(一六六一)年頃成立した『万葉集管見』の覚書的な写本であるが、そこで引用される風土記の多くは、仙覚『万葉集註釈』からのものである。
 しかしその一方、延宝五(一六七七)年刊『続歌林良材集』では、「相模国風土記に云」とする「足軽山」に関する記述があるのをはじめ、寛文十(一六七〇)年刊『枕詞燭明抄』等において「風土記」と称する文献を引用しており、その中には他書に見出せない記述もある。それらがいわゆる古風土記である可能性は低いものの、翻ってそこに長流の風土記に対する認識や地名への関心、そして近世前期歌壇における風土記観があらわれているとも言えよう。さらに、幕府や各藩において地誌編纂事業や古風土記写本の探索が行われていた当時ー十七世紀中期という時代の動向と重ね合わせた時、長流と風土記の関わりはどのように位置づけられるのだろうか。本発表では、長流を中心として、当時における風土記受容の在り方を考察していきたい。

譬喩と問答-巻11・12の編纂-
城崎陽子

 万葉集巻11・12は、歌の作られた環境を示す様々な要素を払拭し、「素材(歌)」だけを見つめながら編纂された歌巻である。ここでの編者による部類行為は、歌を「どう使うか」という作歌意識的視点に立って初めて行うことのできる行為なのであり、言い換えれば、「どう使うか」という発想を動機付けとして成り立つ行為である(拙著『万葉集の編纂と享受の研究』平成16、おうふう)。
 歌を「どう使うか」という視点を追究することで、表現様式の部類として「正述心緒」や「寄物陳思」という部類を生み、さらには、物象を微細に観察し、「喩」の対象とすることによって作歌意識を先鋭化した「譬喩」という部類を生み出していく。
 では、巻11・12に作歌形式としての「問答」という部類が存在することの意義をどのように考えればよいのか。
 「問答歌」については、表現内容のみならず、歌の環境の問題として松田好夫氏が「潜在問答歌」として、「問答歌」として表面に立ち現れない問答歌の存在を指摘した(『万葉研究新見と実証』昭和43、桜楓社)。また、高野正美氏が作者未詳歌巻の歌々に問答形式のなごりを指摘してもいる(『万葉集作者未詳歌の研究』昭和57、笠間書院)。こうした歌の表現と成立環境の問題は、万葉集の表面に立ち現れない歌も含め、歌を「どう使うか」という視点と「どう詠うか」という視点の交錯する地点にあると考えられる。
 巻11・12において、作歌意識を先鋭化していった先にある「譬喩」という表現様式と、「問答」という普遍的な作歌様式が同時に示されることは、巻11・12の万葉集における存在意義であると考えてよい。本発表では、表現様式と作歌様式、そして、それをとりまく環境という視点が合致したところに巻11・12の編纂意図が成り立ち、それが「歌をどう使うか」という動機付けによって、「素材(歌)」のみに焦点の絞られた歌巻としての「歌の世界」を成立させたと結論する。

「心ぐく」- 坂上大嬢詠の方法 -
池田三枝子

  春日山霞たなびき心ぐく照れる月夜にひとりかも寝む       (巻四・七三五)

 右の一首は、巻四相聞部所載の大伴家持・坂上大嬢の贈答歌群の中にある、坂上大嬢の詠である。
 この作品を〈景〉と〈情〉という観点から見る時、〈景〉については、春日山にたなびく霞に光を半ば遮られた朧月夜の叙景とする見方が定説となっている。一方、〈情〉については、かつては晴れやらぬ景に触発されて独り寝の嘆きが表出されたという見方がなされてきたが、現在では〈景〉〈情〉の関係性をより緊密に捉え、「心ぐく」の句をその結節点として、「外界の霞がかかって月もおぼろに照っている夜景を叙しつつ、話し手の気持の鬱陶しさをも含めて未分化なままに述べたもの」(新編全集)とする解釈が主流である。
 つまり、春日山にたなびく霞という景物と朧月夜という景物、それに表現主体の鬱情とを、緩やかに結束する語として「心ぐく」の句があると見ることが出来る。そして、かかる在りようを可能にしているのは、「心ぐく」を第三句に配する一首の構造と、「心ぐし」という語の多義性・多重性であると考えられる。
 本発表では、これを坂上大嬢詠における「方法」として捉えてみたい。「心ぐし」の用例は、既に指摘されているように、坂上郎女・坂上大嬢・家持・池主といった家持周辺の歌人の作に偏りを見せる。また、複数の景物や表現主体の心情を特定の語で緩やかに結束する方法は、家持に影響を与えたとされる湯原王の詠(巻八・一五五二)等にその先蹤を見る。
 よって、当該歌に見られる、繊細な〈情〉の表出を可能にする方法を、後期万葉という時代の好尚としてではなく、大伴氏の文学圏における表現の広がりの問題として考察してみたい。

近年出土の歌木簡と人麻呂歌集の書記を中心に
毛利正守

 木簡の中には、栄原永遠男氏が定義づけられた「歌木簡」という一類型があり、それは歌を書くといった明確な目的をもつ木簡である。今回は最近の報道で明らかになった「はるくさ」木簡、及び萬葉集に収まる歌を記したのではないかとみられる紫香楽宮や馬場南遺跡、それに石神遺跡からの出土木簡、また歌を記した可能性のある他の木簡を先ずは眺める。これらの歌木簡における書記は、基本的に仮名書き(万葉仮名)であり、まれに訓字を有するものの、それをも含めて歌木簡ではできるだけ読み誤ることのない、読みやすい文字が行われていることを現時点で見届けることができる。
 一方、歌集においては、歌集を編むということの意味を問い直す必要がある。当時作られた歌がそのままのかたちで集められて萬葉集などの歌集になるということではなかったと考えられる。歌集は、歌木簡と同じように歌を記す行為ではあっても、日常的な書記のあり方を反映する歌木簡等とは異なり、視覚的にも漢字の意味が読みとれる訓字が用いられるなど、いくつかの書記要素が加わった。
 萬葉集の中に「歌集」の名をもって「柿本人麻呂歌集」が収まっている。萬葉集の中に成り立たせられている人麻呂歌集はどのように位置づけられるべきか。書記の在りようから人麻呂歌集には二つの書式が見られるが、所謂非略体歌は、仮名書きを除いた十四巻を占める一般的な表記に近く、その意味で「常体」歌と捉えられる。それに対して、所謂略体歌は、萬葉集中、人麻呂歌集にのみ表れるきわめて特異な書式である。
 今回、書記の観点から歌木簡と萬葉集とを比較しつつ、一方で、歌集と漢詩集では勿論異質な面があり、古い詩経などとも異なる面を持つが、人麻呂歌集の特異な書式は、漢詩との関わりの中で、従来言われてきた略体歌・古体歌ではなく漢詩風なる「詩体」歌として把握できることを論じたい。

あさかやま歌木簡の出土状況と再発見の経緯(付)「歌一首」墨書土器
栄原永遠男

 二〇〇六年(平成18)九月に大阪の前期難波宮跡で出土した七世紀中ごろの「はるくさ木簡」は、万葉仮名で歌が書かれていたため、歌の表記の展開などに重大な問題を投げかけることとなった。この木簡の事前検討と公表に一部関わる機会を与えられた私は、これを機に、万葉仮名で歌や歌らしきものを書いた木簡や削屑を網羅的に検討し、荷札・文書・帳簿・伝票などとは別の木簡の類型として「歌木簡」なるものの存在を提唱した(二〇〇七年七月七日美夫君志会大会報告、『美夫君志』七十五、二〇〇七年十一月)。
 「歌木簡」の概念については、その後整理を進め、現時点では、儀式・歌宴などの参加者が朗詠するために用意した、片面に一行で歌を書いた二尺や二尺半に及ぶ長大な木簡を典型的なものとし(Aタイプ)、歌宴などのフォーマル度が低まり、プライベートな性格が増す場合、この典型は必ずしも維持されないこともあった(Bタイプ)と考えている(二〇〇七年十二月一日木簡学会大会報告、『木簡研究』三〇、二〇〇八年十一月)。なお「歌木簡」以外に、歌の断片を書いたものも多く、この両者を区別して論じることが重要である。
このような「歌木簡」の検討を進める過程で、宮町遺跡で出土していることが以前から知られていたナニハツ木簡の調査を二〇〇七年十二月十日に行い、その裏面にアサカヤマの歌が書かれていたことを確認した。
 しかし、この木簡には、文字の判読しがたい部分があること、二片に分離していること、厚さ一ミリと薄いこと、木簡自体には年紀が書かれていないこと、表裏の前後関係をどう見るか、などいくつかの問題点がある。
 これらの問題点を追究し、この木簡を研究資料として活用するためには、その形状、墨痕、出土状況などを、可能なかぎり綿密・正確に把握することが肝要である。本報告では、これらの基礎的情報を正確に提示することを第一の目的としたい。なお、同じく宮町遺跡で出土した「歌一首」墨書土器についても付言する。

☆返信用ハガキについて
・大会参加の申し込みは、同封のハガキ(國學院大學 辰巳正明研究室宛)に必要事項を記入して、4月25日(土)までに必ず届くようにお送りください。
☆費用について
・費用(研究発表資料集代〔1000円〕、懇親会費〔7000円〕、24日(日)昼食代〔1000円〕は、同封の振替用紙を使用し、郵便振替で口座名「上代文学会・古事記学会合同大会」(口座番号00200-4-115802)宛に、4月25日(土)までに振り込んでください。
☆昼食について
・24日(日)の昼食が必要な方は、必ず事前にお申し込みの上、1000円を御入金ください。
・会場周辺には、日曜日営業のコンビニはありますが、大型の店舗はございません。
☆宿泊・交通について
・各自でお申し込みください。
☆出張依頼状について
・出張依頼状は、各学会事務局に、提出先と職名を明記の上、返信用封筒に80円切手を貼ってお申し込みください。

※上代文学会事務局 〒169-8050 東京都新宿区西早稲田1-6-1
早稲田大学社会科学総合学術院 内藤明研究室
電話03(5286)1415

☆大会に関する問い合わせ
〒150-8440 東京都渋谷区東4-10-28
國學院大學 若木タワー10階 辰巳正明研究室
電話 03-5466-0211
Eメール chensi@kokugakuin.ac.jp

資料展示 「國學院大學所蔵古典籍展-上代文学への誘い-」
共催 國學院大學伝統文化リサーチセンター
会場 伝統文化リサーチセンター資料館
(國學院大学渋谷キャンパス 学術メディアセンター地下一階)
日時 23日(土)・24日(日) 午前10時〜午後6時


(2) 秋季大会案内

上代文学会秋季大会 一日目(シンポジウム御案内)御案内
日  時二〇〇九年十一月十四日(土)午後二時〜五時三十分
会  場日本女子大学 香雪館4階401教室
テ ー マ仏教と上代文学
 平安遷都後の文学に仏教が色濃く投影されるに対して、仏教の上代文学への影響は微弱であるとされてきた。古事記はその伝来さえ語らず、万葉集にも思想的に仏教の影響下にあるとされる歌は数えるほどしかないとされてきた。ところが、仏教伝来から氏族仏教を経て国家仏教として大きく開花していく時代の中で、記紀万葉風土記は成立しているのである。日本書紀には経典名も記載され、僧尼の固有名も百人を超えて記載されることも考慮すれば、文字情報・潤色資料としての仏典に留まらず、上代文学にとっての仏教を再確認する必要がある。
 「仏教は上代文学に何をもたらしたか(もたらさなかったのか)」を問う前提として、最新の上代仏教史研究の成果が必須であることは言うまでもない。今回のシンポジウムでは上代文学の背景として仏教を取り上げて、議論をいっそう深める機会としたい。
講師及び講演題目  上代「仏教」の実態と研究者の「仏教」
就実大学大学院教授 曾根正人
 神身離脱の内的世界―救済論としての神仏習合―
上智大学専任講師 北條勝貴
 上代文学と東アジアの漢訳仏典
東京成徳大学教授 増尾伸一郎
(司会 上智大学教授 瀬間正之)
発表要旨 上代「仏教」の実態と研究者の「仏教」
曾根正人
 「上代日本仏教」というとき、参加者諸氏はどのような具体像を想起するだろうか。みな同じ像を浮かべるのだろうか。はたまた研究対象によってかなり異なっているのであろうか。できれば後者であることを願いたい。
 釈迦の教えと大乗仏教、中国仏教、そしてさらに日本に伝来した「仏教」が異なっていることは常識だが、東アジアに限っても、時期・地域・担い手によって「仏教」の内容にはかなりのバラつきがある。さらに古代日本のような仏教後進国の場合、理解不足による消化の不均等分布が加わる。歴史現象としての「仏教」は、個々の事象ごとに相当異なった内実を包含しているのである。上代日本でも「仏教」は極めて多様な形で展開している。そして現在まで、それらを統括的に説明しうる「上代仏教」枠組は提示されていない。今日言うところの「上代仏教」とは、上代の「仏教」として抽出された要素の総称に過ぎない。従って研究対象に忠実であればあるほど、個々の研究ごとに「仏教」の内実は異なって来るはずなのである。冒頭にこうした状況こそ願わしいとした所以である。
 だが中古文学における状況を参照するに、実情はそうはなっていない。むしろ逆に、作品から抽出された「仏教」がいかに特異であっても、仏教史学の一般的分類に当てはめてよしとする傾向が目に付く。仏教史学分類は理念型であるから、あくまで有力潮流整理の道具に過ぎない。時代の「仏教」全てに適用できるものではないし、それを代表するものでもない。そこに個別の「仏教」を無理に貼り付ければ、現実の個々独自の「仏教」は捨象されてしまう。作品の「仏教」の実態から遠ざかってしまうのである。
 これを踏まえるなら、上代文学作品に見える経典・経文・教理的記述を、安易に本体の経典・教理思想に連動させることはできない。本体の経典・教理思想はインド・中国仏教の現象上に設定された理念型だからである。作品の現実の「仏教」を理念型に引き寄せることの問題点は既に述べた。さらに仏教理解が不足していた8世紀以前の日本では、作者が正確に経典・教理思想を受容していた可能性は極めて低い。無論典拠はあったはずである。だが主たる典拠は、教理思想よりは経論の文章もしくは仏教思想を取り込んだ文学・法令等の外典と考えられる。何故なら十分な教理解釈は奈良末期の仏教界ですら定着していない(以下で具体的に提示)からである。実態のないそれらとの関係を引き出そうとしても、非現実的な結論を導くだけである。必要なのは既存の分類モデルに安易に便乗することなく、対象に見える「仏教」をあるがままに分析する姿勢なのである。


神身離脱の内的世界―救済論としての神仏習合―
北條勝貴
 日本古代に展開する神仏習合の形式のひとつ、神身離脱は、元来中国六朝の江南地方で創出された言説である。この頃には、山林における道教/仏教の交渉が盛んに行われる一方、西域由来の禅観経典に基づく観想行を通じ、様々な疑偽経典が撰述されていた。神身離脱の論理も、そうしたなか、最新の教説を反映しつつ醸成されてきた。その嚆矢に当たるのは、廬山教団による宮亭湖廟の蛇神解脱譚だが、主人公の安世高は、前世の同学を救済したいという極めて個人的な動機で巡錫を始める。僧伝類の常套的形式となることで希薄化してゆくが、物語の初源において、神身離脱は私的な情動に基づく救済論として機能していたのである。その背景には、災禍なす非業の死者を鬼として忌み、祖霊以外の奉祭を淫祠として斥けながら、しかし彼らを祀り鎮めざるをえなかった祖先崇拝の紆余曲折があった。
 中国の廟神は、天帝や泰山府君の命を受けた鬼魂にほかならず、よって祟り神を鎮める際にも神身離脱を進める際にも、常に死者をどのように扱うかが隠れた主題となっていた。しかし、古代日本の〈神〉は、自然を表象する神霊であって人間の霊魂ではない。神身離脱は日本でも8世紀に主唱されるようになるが、そこで語られる〈神〉の苦しみ、解脱の意志とは何を意味するのか。中国的神の苦しみは死者のそれだが、山や川、海や森の苦しみとは何なのか、そこに仏教的救済は成り立つのか。〈草木発心修行成仏論〉の展開までを視野に入れて考えたい。


上代文学と東アジアの漢訳仏典
増尾伸一郎
 万葉集には法会や仏事に関する作品はさほど多くはないが、山上憶良のように仏教への深い理解を示す例をはじめとして、大伴家持や何人かの僧侶の歌には仏教的な「無常感」が窺える。
 彼らは中国の漢詩文や志怪・神仙小説、霊験譚などを通じて仏教文学の世界に接したと思われるが、漢訳仏典そのものについてはどうだろうか。
 正倉院文書の優婆塞貢進解や日本霊異記にみられる仏典に中国で撰進された疑偽経類が含まれるのは、平城京の官営写経所で書写された一切経に、中国では排除された疑偽経や別生経などが多数含まれるのと軌を一にする。
 儒教や道教をはじめとした中国思想や民間信仰の諸要素を包含する疑偽経を、積極的に受容したのは日本だけではなく、敦煌やウイグル、朝鮮、越南(ベトナム)など、漢字を媒介として中国の思想や文化を摂取した周辺諸地域に共通する。
 日本の上代文学と仏教との関係を考えるには、仏教と儒教・道教さらには神祇信仰との重層性を、東アジアを中心とした漢字・漢文文化圏の展開の中で考える必要がある。

上代文学会秋季大会 二日目(研究発表会)御案内
日  時平成二十一年十一月十五日(日)午後一時〜五時
会  場慶應義塾大学三田キャンパス西校舎五二七教室
研究発表 大伴家持の書簡贈答歌――四〇七六〜四〇八四番歌―
日本大学准教授 清水 明美
(司会 信州大学准教授 西 一夫)
巻十七の編纂――冒頭三十二首の役割について―
梅花女子大学教授 市瀬 雅之
(司会 國學院大學兼任講師 城崎陽子)
木簡の歌と万葉歌――ウタの書記と表記体―
関西大学教授 乾  善彦
(司会 日本女子大学教授 平舘英子)
発表要旨 大伴家持の書簡贈答歌―四〇七六〜四〇八四番歌―
日本大学 清水明美
 「霍公鳥」は、大伴家持がくり返し取り上げる歌材として、つとに知られている。家持の霍公鳥歌は、歌としての評価が低いものが大半だが、近年、家持の自然詠の習作として、その役割が見直されている。もう一方で、万葉の自然詠という視点からは、恋歌や交遊歌からの抒情を借り受けつつ、やがて自然そのものへの恋として表出されてくる、いわば、家持の自然詠の確立という問題が、主に巻十八の歌々、すなわち霍公鳥が集中的に詠まれる時期の歌をとおして論じられている。
 本発表では、天平二十一年の大伴家持歌を取り上げる。特に、大伴池主との書簡贈答歌(四〇七六〜四〇七九番歌)と、大伴坂上郎女との書簡贈答歌(四〇八〇〜四〇八四番歌)に留意したい。この二つの歌群は、伊藤博氏によれば、同時に家持に届けられた歌への返歌であるという。
 この二つの歌群には、家持歌の特徴的題詞となる「属目」という語彙が見られ、かつ「霍公鳥」が詠まれた四〇八四番歌は、一ヶ月後、四〇九一番歌で、「独り幄の裏」に詠み直されている。独詠歌が、家持の最も特徴的な方法であることは、今日、改めて言う必要もないだろう。
 すなわち、本発表が取り上げる二つの書簡贈答歌は、家持にとって、あるひとつの転換点を示すと考える。家持が、独詠歌によって、あるいはひとりの歌人として、どのように方法を模索したのかという考察は、すでに芳賀紀雄氏・鉄野昌弘氏によって精緻な論がある。その論考に導かれつつ、本発表では「書簡」が、家持とどのように切り結び、何をもたらしたのかという点を確認したい。
家持の霍公鳥歌は、巻八にも多いが、ここには大伴旅人・坂上郎女といった、一つ上の世代の歌も混在する。先述の問題意識をもって、巻八・十に見える霍公鳥の歌群と比較しながら考察すると、大伴旅人・坂上郎女といった家持の親世代の歌が、家持という歌人の中で、どのように混在し、あらためて腑分けされたのか、その結果として自然詠はどのように方向付けられたのかが鮮明になるのではないか。以上が本発表の問題意識である。


巻十七の編纂―冒頭三十二首の役割について―
梅花女子大学 市瀬雅之
 万葉集の編纂は、『万葉代匠記』〔精撰本〕の「惣釋」が記すように、早くから巻一〜巻十六と巻十七〜巻二十を区別することを前提に議論が重ねられてきた。そのため巻十七は、実質的に天平十八年の歌からはじまると見なされ、冒頭に配された三十二首(三八九〇〜三九二一)が、巻十六以前の「拾遺」或いは「補遺」と位置づけられてきた。これらの歌について論じられたのは、補遺でありながらも三十二首が冒頭に選ばれた意図であり、用いられた資料の所在や編まれた時期であり、巻の編纂者或いは歌の作者としての大伴家持との関わりであった。
 確かに万葉集には、天平十六年までを一区切りとして、巻十六を節目に編まれた痕跡が認められる。しかし、構造的な節目をそのまま編纂と捉えてきたがゆえに、編纂論は構造論と等しく論じられてきた。実際に従前の編纂論の多くが、構造論にはじまり、構造的節目を再構築する形成論を主とする。議論によって明らかにされた部分は大きいが、編纂論とは本来、巻がどのような意図や意味に基づいて「編まれている」のかを問題とすべきであり、構造論や形成論と住み分けた議論を必要としている。
 巻十七の冒頭三十二首に限っていえば、構造論に基づいた「拾遺」或いは「補遺」との見方から議論をはじめるのではなく、巻一〜巻十六に続いて配された巻の冒頭に位置する歌々として、編まれた意図や意味を問題とすべきように思う。巻一〜巻十六の編まれ方に留意すると、時代や時間に配列軸を求める巻は、前後の巻と時間的な重なりを認め合う。巻十七の冒頭三十二首も、これらと同じ方法で編まれていると受け止めることで、「拾遺」や「補遺」を問題としない議論が可能になる。
 本発表では、編纂論の一環として、巻十七の冒頭三十二首を「拾遺」や「補遺」としてではなく、巻十七が巻十六以前をどのように引き受けて編まれているのか、冒頭三十二首の担う役割を考えてみたい。


木簡の歌と万葉歌―ウタの書記と表記体―
関西大学 乾 善彦
 二〇〇八年に、万葉集にのる歌と同じと思しき歌が記された木簡が三件報告された。それまで、なにはづの歌をはじめとして、木簡に歌と思しきものが書かれた例は多数報告されていたのだが、万葉集にのる歌と同じと特定される木簡は発見されていなかった。そこで、木簡書かれるような歌と、万葉集にのるような歌とでは質的な違いがあるのではないかということも考えられてきた。今回の報告でそのような考え方は否定されたとしても、木簡の歌がすべて一字一音の仮名書であるのに対して、それと考えられる万葉集の歌がことごとく訓字主体表記であることに対して、われわれはその違いをどうとらえるかが、大きな問題として突き付けられたことになる。
そこで、仮名書と訓字主体表記というウタの表記体の差異について、表記史的な観点から「表記体の変換」がもたらす可能性について考える。
ウタの表記が一字一音の仮名書でも、訓字主体でも書かれうることは、書かれることばによって表記体が左右されないということであり、ウタを書き記す場によって表記体が決定されるということである。一見、なんでもないこのことは、一面では、日本語表記の成熟を示すものである。ウタが漢文的に書かれることと仮名で書かれることの差異を考えることは、歌集としての万葉集の性格を物語るものであると同時に、「漢文」という枠組みが、漢字による日本語表記の実態であったことを物語る。「やまとことば」は仮名で書かれることにおいて「やまとことば」であったのである。
木簡のウタの仮名書は、万葉集の特殊性を示すとともに、仮名散文への道程でもあったことを確認したい。


(3) 例会案内

上代文学会7月例会御案内
日  時平成二十一年七月十一日(土) 午後二時〜五時
会  場二松学舎大学九段校舎 一号館四階 四〇一教室
研究発表『日本霊異記』の語る政変
東京大学大学院生 蝦名翠
(司会 大東文化大学教授 藏中しのぶ)
『古事記』における天神―「別天神」の解釈を踏まえて―
國學院大學大学院生・浦和学院高等学校非常勤講師 坂根誠
(司会 明治大学教授 居駒永幸)
射日神話を追って―東アジアの古墳絵画から神話・万葉集へ―
聖徳大学教授 山口博
(司会 青山学院大学教授 小川靖彦)
発表要旨『日本霊異記』の語る政変 蝦名 翠

 『日本霊異記』には、長屋王(『日本霊異記』では「長屋親王」)の変(中巻第一縁)や橘諾良麻呂の変(中巻第四十縁)、藤原仲麻呂の失脚や淳仁天皇廃位・孝謙/称徳天皇と弓削道鏡とのスキャンダル(下巻第三十八縁)など、奈良時代に起きた政変を題材にした説話が収録されている。これらの説話からは、政治的思惑が複雑に絡み合い起きた事件が、民衆の間に伝播してゆく過程で、説話として粉飾・潤色され形づくられるさまをうかがうことができる。
 『日本霊異記』中の謀反をテーマにした説話にみられる最大の特徴として、高貴な権力者が国家への反逆者として非業の死を遂げた事件を、彼らが仏教徒に対して行なった弾圧によって招かれた悪報として語っていることが挙げられる。『日本霊異記』が因果応報思想に貫かれている点からも、また私度僧を経て薬師寺の官僧となった撰者・景戒の経歴と立場からもその理由は明らかである。仏教説話集である『日本霊異記』は特定の政治観を全面に押し出すことを目的とした書物ではなく、国家のもとで作られた史書(『続日本紀』)や歌集(『万葉集』)とは異なった論理のもとで政変を取り上げている。性欲に溺れることを苛烈なまでの悪報譚によって戒めている『日本霊異記』における、孝謙/称徳天皇と弓削道鏡との密通が明記される下巻第三十八縁のエピソードなど、一見位置づけが困難が思われる部分にも、奈良時代末期から平安時代初期にかけ一仏教徒として生きた景戒の編纂方針が貫かれているといえよう。『日本霊異記』が、遠からぬ過去の政治的事件と如何に向き合ったかについて迫りたい。

『古事記』における「天神」―「別天神」の解釈を踏まえて― 坂根 誠

 『古事記』における「天神」は、「国土の修理固成」の段と「国譲り・天孫降臨」の段の二箇所において司令者としての性格を有してあらわれる。この二箇所にあらわれる「天神」の解釈における問題点は、「天地初発」の段に成る「別天神」との関わりと、「国譲り・天孫降臨」の段以降の司令者と捉えられてきた天照大御神との関わりであろう。
 本居宣長は「別天神」について、国常立神以下の神とは「別なる神として、分たるもの」という解釈と、天照大御神以下の「天神」との「差をたてて別天神と申す」という解釈の二案を示した後、前者を採用した。しかし倉野憲司をはじめ、近年の研究においては、宣長の提示する後者の解釈を採用するものが多い。この「別天神」の研究史上の解釈の違いは、「天神」の理解を深める上で重要であろう。これは、『古事記』冒頭に成る天之御中主神以下五柱の「別天神」が、伊耶那岐命・伊耶那美命の婚姻の段において「天神(諸)」として命令を下しているという問題、天照大御神を「天神」と捉えることが出来るかという問題を提起するものと考える。
 天照大御神は、「天若日子の反逆」の段において、高御産巣日神と並列される形で「天神」であることが示される以外は、その系譜に連なる者が「天神(之)御子」と称されることによって、「天神」として位置づけられていると考えられてきた。しかし、迩々芸命以下の「天神(之)御子」と称される存在は、高御産巣日神の系譜にも連なっている点を鑑みれば、明確に天照大御神のみを「天神」と保障するのは天忍穂耳命の存在ということになる。しかし、この天忍穂耳命を指す「天神(之)御子」の語が、「国譲り」の段における大国主神以下の国神との会話文にしかあらわれない点は重要であろう。
 天照大御神を「天神」として保証している、天忍穂耳命を「天神(之)御子」とする文脈の問題点の分析から、『古事記』における「天神」とは、「天地初発」の段に成り「別天神」と称される天之御中主神以下の五柱のみに限定されて用いられている点を明らかにしたい。

射日神話を追って―東アジアの古墳絵画から神話・万葉歌へ― 聖徳大学 山口 博

 古代、複数の太陽が天空に現れたので、それを弓で射落としたという射日神話は、東アジアにかなり広く分布している。特に中国漢民族世界では、成立が戦国時代以前かとも思われる『山海経』、同時代末の『楚辞』、前漢の『淮南子』等文献に、前漢初期馬王堆木棺帛画や漢墓壁画等の画像に見ることが出来る。また、少数民族においても、北から南まで伝説を残す。朝鮮半島においては、一二世紀の『三国史記』記載は時代が下がりすぎるが、四世紀前後、倭国と戦いを交えていた高句麗好太王時代の角觝塚古墳に画かれていることを、突き止めた。
 日本列島においても、偽作の疑いがあるものの、その可能性を棄てきれない長野県尖山縄文石絵画、新たに見直しを試みる日本の福岡県五郎山古墳、同古畑古墳、福島県和泉崎古墳、同清戸迫古墳の壁画等々をも勘案すると、古代日本列島への射日神話伝播の可能性は、十分に考えられる。
 『日本書紀のスサノオが天斑駒の皮を投げ込む神話で、一書第一はワカヒルメが亡くなり、オオヒルメは天石窟に籠ったという。『私記』は、ワカヒルメはアマテラスの子かと言う。そうすると、大小二つの太陽が存在し、一つは消滅し、一つは一時消滅したが再び招き出されたということになる。これは複数の全太陽を射落としたので、一つだけ招き出したという招日神話の変貌ではないか。
 このように考えてくると、『万葉集』の「天原往射跡白檀挽而隠在月人壮子」(巻一〇・二〇五一)も、射日神話を念頭に置いている可能性が考えられるのである。

◎常任理事会会場  於一号館十一階一一〇三会議室

上代文学会9月例会御案内
日  時平成二十一年九月十二日(土) 午後二時〜五時
会  場大東文化会館ホール
(地図 http://www2.daito.ac.jp/jp/uploads/profile/1213941001_DBkaikan_access.pdf
研究発表 『東大寺諷誦文稿』の「慰誘言」についての基礎的考察
大東文化大学職員 藤本誠
(司会 上智大学教授 瀬間正之)
上代語の語義と語感――訓詁と解釈の問題――
弘前大学教授 吉田比呂子
(司会 早稲田大学教授 高松寿夫)
発表要旨 『東大寺諷誦文稿』の「慰誘言」についての基礎的考察 藤本 誠

東大寺諷誦文稿』(以下、『諷誦文稿』)の二六三〜二八四行には「慰誘言」と見出しのつけられたまとまりがある。本資料の最後には、この内容が「大略」にすぎず、法会の聴衆である貴賤道俗男女に応じて言葉を増減すべきであることが記されており、「慰誘言」が確実に法会に際して読まれていたことがわかる。「慰誘言」の内容は三つに大別される。第一は「慰誘言」の冒頭から二七七行に到るまでのまとまりであり、ここでは多数の漢籍の比喩を用いながら檀越が讃えられる。第二の部分では法会の舞台である「堂」と周囲の景観が称えられ、第三の部分では「旦主」が法会を開催していること自体が讃えられている。注目されるのは、最終行で「貴哉、旦主。希有、丈夫云。観音卅三云」と本資料が檀越を讃える目的で作成されたものであることが明確にわかり、更に観音に擬えて檀越を讃えていることである。「観音卅三」とは『法華経』観世音菩薩普門品第二十五で観世音菩薩が三十三の姿で現れ衆生を教化することを示しているが、これは見出しの「慰誘」という表現が「仏が衆生を教え慰め、浄土へ導くこと」と理解できること、第一の部分で檀越の行為が菩薩の利他行として讃えられていることからすれば、『諷誦文稿』において「慰誘言」とは、観音の化身である檀越が聴衆を教化し救済する文章として位置づけられていたと考えるべきであろう。本報告では、以上のような「慰誘言」の構造を示した上で、本資料のかなりの部分を占める漢籍の引用の出典とその「慰誘言」における意味を考察することによって、「慰誘言」が古代の「堂」の檀越や法会の様相を示す資料として独自の価値をもつことを明らかにしたい。

上代語の語義と語感―訓詁と解釈の問題― 吉田比呂子

万葉集を読む、記紀を読むという訓詁や解釈の基礎的な作業があって、初めて万葉集の歌や記紀の説話や歌謡を読むことができる。特に万葉集は歌論書や歌学の中で長い間の訓詁の積み重ねがあり、それらを基に現在の万葉集歌の研究が生まれている。これら訓詁を中心として積み重ねられてきた研究成果の中身を、今後の万葉集歌研究や上代語の研究に生かして行くために、語義の形成の歴史や環境、語感の変化や変遷の歴史を辿り、それらの性格を把握し点検する必要がある。本発表は上代に出発点を持つ語の語義の歴史や語感の歴史という研究基盤を作り、従来の万葉集の歌の解釈や記紀の説話や歌謡の訓詁や解釈を見直し、日本語の歴史(語義史・語感の歴史)の中で、位置づけることを目的としている。その手がかりとして視覚表現語から嗅覚表現語転用されたと言われている「にほひ」や馬が「つまづく」の解釈を変化を取り挙げることとしたい。
 先ず万葉の「にほひ」は視覚表現の語であったものが嗅覚表現の語へと古今和歌集の段階では変化している、視覚表現語が嗅覚表現語へと転用されるその意味については、言及されることが少ないように思われる。しかし、このような現象は語義や語感の変化の環境の中で現れた現象であろうと考えられる。この現象の中身を明らかにすることが必要であろうと考えるのである。また、「つまづく」が馬の転倒という解釈がなされるようになった原因も中古語の影響下にあったという推定が出来る。
 これら訓詁と解釈が行われるにあたって、古辞書(類聚名義抄・新撰字鏡)の訓を利用してきたことは自明のことである。しかし、古辞書の訓(語の性格・訓の幅)の性格をあまり考慮しないで決定してきた可能性もある。
 以上、「にほひ」「つまづく」を手がかりとして、今までの訓詁や解釈を見直し、日本語の語義の形成や語感の形成という視点から考えたい。

◎常任理事会会場 大東文化会館 K404

上代文学会12月例会御案内
日  時平成二十一年十二月十二日(土) 午後二時〜五時
会  場明治大学駿河台キャンパス リバティータワー九階一〇九三教室
研究発表 近現代におけるオトタチバナヒメ像――入水の図≠中心に――
甲南女子大学非常勤講師 田中千晶
(司会 埼玉大学准教授 飯泉健司)
「味酒 三輪乃山」と歌うこと――天智と神話――
國學院大學兼任講師 多田元
(司会 日本大学非常勤講師 加藤清)
万葉集片仮名訓本と仙覚校訂本
文部科学省教科書調査官 田中大士
(司会 駒澤大学准教授 中嶋真也)
発表要旨 近現代におけるオトタチバナヒメ像 ―入水の図≠中心に― 田中千晶

 オトタチバナヒメは、夫のヤマトタケル東征の折、海神の怒りを鎮めるために荒れる海に身を投じ、夫を救ったことで知られる。明治期には、入水の行動が賢婦≠ニして着目され、数種類の婦人雑誌に史伝が掲載された。大正期からは小学校国定国語教科書の教材としても採録された。これらの史伝及び教材の多くは挿絵を伴っており、それはオトタチバナヒメがまさに海に飛び込む瞬間をとらえた絵である。このような入水の図≠ヘ近世末期から明治初期に登場し、その典型的な図像の嚆矢は菊池容斎『前賢故実』(一八六八年)に掲載された「弟橘媛」と考えられる。近代に発行された婦人雑誌、少年少女雑誌、児童書、教科書等に掲載された入水の図≠フ多くは構図がほぼ同じで固定化しているといえる。入水の図≠ヘ現代においても絵本等で描かれ続けているが、図像が登場しはじめた時期には無かった合掌する祈りの姿≠ェ定着している。オトタチバナヒメの伝承は、特に明治期以降には入水の図≠伴って語り継がれてきたにもかかわらず、図像に関してはこれまでほとんど考察されてこなかった。
 本発表では、近現代における『古事記』の受容研究の一環として、オトタチバナヒメに焦点を当て、絵画資料に着目し、その変遷について具体的に図像を辿りながら追ってゆく。そしてオトタチバナヒメ伝承が時代情勢に応じて変容している様相をも確認してゆきたい。また、『古事記』はアジア太平洋戦時下において戦意高揚に利用されたとされるが、具体的にどのように利用されたのか、戦時下に記されたオトタチバナヒメ伝承を見てゆくことで、その実態の一部を明らかにしたい。

「味酒 三輪乃山」と歌うこと――天智と神話―― 多田 元

 「三輪山惜別歌」とも呼称される『万葉集』巻一・十七、十八番歌、その「和歌」と記される十九番歌については、儀式を背景にするという解釈と、個人的叙情の歌として捉える解釈とに分かれている。それは『万葉集』の記述にみえる「額田王〜作歌」に対する左注「御歌」、また「反歌」「和歌」の用語解釈を始めとする資料性の問題、時代区分呼称「初期万葉」歌の質の問題にまで及び多様な論点を抱え込んでいるといってよい。
 資料性の問題で言うと、例えば直前の十六番歌の題詞に「天皇」「内大臣」という明らかに後時の呼称が見られることから、題詞等全てが原資料そのままとは考えがたいことは言うまでもない。また左注の「類聚歌林」の段階では近江国遷都時の「御歌」と理解されていた。他の用例に照らし合わせて、「額田王作歌」と「御歌」とが共存するありかたでこの歌を捉えるのが穏当な見方であろう。そこでこの歌を理解するためには「天智天皇」は切り離すことの出来ない存在であると考えられる。
 天智天皇はその没後「天命開別」と諡される。その評価を下した時期・人物は決めがたいが、新王朝の開始者とも取れるこの諡を生み出したのは天智の施政にあったであろうことは想像に難くない。その国家体制の創立事業は天武天皇に受け継がれて、「大君は神にしませば」という讃仰詞章に結実する。天武の生み出した施政・文化の萌芽は天智の施政に準備されていたと仮定すると、天智を巡る歌にもそれは見出せないであろうか。天智もまた「神を目指した大王」として論じてみたい。

万葉集片仮名訓本と仙覚校訂本 田中大士

 鎌倉時代に万葉集を校訂した仙覚は、校訂に用いた諸本について奥書で比較的詳しく書き残している。この記述は、当時存した万葉集の伝本の状況を知る上で重要な資料になると考えられる。ところが、仙覚の奥書に記された諸伝本と現存する非仙覚系の伝本とでは、確実に合致する事例は今のところ一例も見られない。仙覚の奥書の記述と現存伝本の間につながりが見出せないのである。このため、仙覚校訂当時の万葉集の伝本の状況を総合的に把握できない状態が長く続いている。
 一方、近年現存する非仙覚系伝本の方の解析は進んでいる。本発表は、その観点から仙覚本と非仙覚本との関係を探ることを目的とする。万葉集の非仙覚系の伝本は、系統上、平仮名訓本と片仮名訓本とに分けられることが明らかになった。そのうち、片仮名訓本は、長歌訓分布が諸本で一致するところから、同一の系統であることが証明されている。この片仮名訓本諸本は、仙覚校訂本とも密接な関係が指摘されている。仙覚校訂本は、仙覚が見た諸本に訓が有るか無いかによって、有る歌は古点ないし次点、無い歌は新点と明確に区別がされている。一方、片仮名訓本諸本では、仙覚の古点次点にあたる歌には訓があり、新点にあたる歌には訓がないという仙覚本との際だった対応が見られる。このような対応は、仙覚が校訂を行う際、他ならぬ片仮名訓本諸本を参照していたと考えなければ説明がつかない。むしろ、片仮名訓本諸本は、仙覚の校訂作業において根幹を為す伝本であったといえよう。
 さらに、右のような対応関係を仙覚の立場で考えれば、先行する諸伝本の訓の有無を確実に把握するための最善の方法は、片仮名訓本諸本の一本を手元に置き、その訓の空白の部分を埋めて行くことであっただろうと推定される。

○常任理事会(於、研究棟第三会議室)

上代文学会1月例会御案内
日  時平成二十二年一月九日(土) 午後二時〜五時
会  場早稲田大学戸山キャンパス 33−2号館二階 第一会議室
研究発表 『先代舊事本紀』におけるフツノミタマ――刀剣の献上と下賜を中心に――
國學院大學大学院生 吉岡賢康
(司会 早稲田大学非常勤講師 工藤浩)
宴の贈答歌――対応関係をめぐって――
立命館大学教授 真下厚
(司会 東京大学大学院教授 多田一臣)
発表要旨 『先代舊事本紀』におけるフツノミタマ ―刀剣の献上と下賜を中心に― 吉岡 賢康

『先代舊事本紀』《巻五・天孫本紀》に記載される神武天皇の東征場面において、大きな役割を果たすのが、フツノミタマという刀剣である。
『先代舊事本紀』では、天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊から尾張氏の始祖神として「天香語山命」が、物部氏の始祖神として「宇摩志摩治命」が異母兄弟として誕生している。さらに、天香語山命の亦名として「高倉下命」という神名があり、この高倉下命にフツノミタマが与えられ、高倉下命によって神武天皇へと献上される。そして、神武天皇の軍の勢いを復活させたフツノミタマはその後、長髓彦との戦に苦しむ神武天皇を助けた忠臣として描かれる宇摩志摩治命へ下賜され、宇摩志摩治命からは天皇へ天璽瑞寶十種を渡すという結末が伴っている。このように、『先代舊事本紀』には『古事記』や『日本書紀』の神武天皇の東征場面には見られない記述が多く含まれている。
フツノミタマと天璽瑞寶十種の交換場面については様々な指摘があり、近年では工藤浩氏が「一旦は王権の手に渡ったフツノミタマを、再びウマシマヂが得て、これが石上~宮に鎮座することの合理性が無事保証されることになる」と考察している。しかし、当該箇所におけるフツノミタマの献上と下賜にはさらに他の意味もあるのではないだろうか。『先代舊事本紀』における尾張氏と物部氏の場合は、各々の始祖神を同一神化して示すものの、子神を別々に記述して尾張氏と物部氏を誕生させている。そして、フツノミタマの献上と下賜を通して、再度尾張氏と物部氏を同一化するような意図があると考えられる。前述のような統合・展開の繰り返しを行う記述は『先代舊事本紀』の中でも特徴的な部分である。
本発表の結論としては、『先代舊事本紀』のフツノミタマの献上と下賜が、尾張氏と物部氏の統合・展開を繰り返して同一化する姿の一端であり、さらに、天皇家と氏族との服属の関係を描いているということにあり、そのことについて発表したい。

宴の贈答歌―対応関係をめぐって― 真下 厚

 日本古代の宴における歌は万葉の時代以前の遙かな昔から長い歴史をもってきたであろう。さまざまなレベルの宴において、歌垣とは別に歌掛けが行われていたと思われる。日本古代の『古事記』『日本書紀』などの説話において宴で歌の贈答がなされたという記述がしばしばみられ、また今日のアジア各地の歌文化においても歌掛けの習俗が広範に存在していることから、こうしたことが推定されよう。
 『万葉集』のなかでも、宴において贈答がなされたことが明らかな歌やそのように推定されている歌がある。他方、遠く離れている者同士の間で歌が贈答されることが盛んになってきた。そのようななかで、宴における贈答歌はどのような様相を呈することとなったのか。書簡での贈答歌の詠み方についての潮流は宴における贈答歌の表現にも及ぶことになったものと思われる。このような観点から、宴における贈答歌の表現の対応関係をめぐって論じるものとする。。

○常任理事会(於、33−2号館二階第二会議室)

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