社会的存在としての人間
その環境健康理解をめざす統合学研究
大阪大学大学院医学系研究科 社会環境医学講座
森本 兼曩
20世紀後半の医学医療は革新的な変革を遂げました。有効な薬剤開発と高度な診断治療
技術の普及にささえられた臨床医学実践に加えて,予防接種の開発普及と健診活動を主体とした予防社会医学活動が
相まって,先進諸国を中心に,結核を中心とした感染症制御は大きな成果をあげてきました。
続く高度経済成長政策の結果としての環境汚染(公害)の制御も,衛生学理論と実践体系を礎にした環境科学,予
防保健医学活動により,ひとまず克服されたかに見えたのですが,実態はどうでしょうか。感作性物質,内分泌撹乱
物質,ナノ粒子に代表される有害な環境因子の健康影響については,予防環境医学研究の緒についたばかりの情況と
言えましょう。
くわえて今,世界の先進国は,一人ひとりの生き様を健康破綻要因とする,がん,循環器疾患,代謝疾患(糖尿病)
などの生活習慣病の新しい健康脅威に対し,予防と健康増進を主体としたより包括的な医学医療活動を要請されてい
るのです。さらに,個人健康医療情報の保持活用,あるいは学術研究活動の真正さの自験確保などに代表される医学
倫理議論も,社会が我々に強く問いかけている重要な課題です。
翻ってながめてみると,ここ半世紀の間,遺伝学,免疫学,生化学,あるいは脳神経学を主体とした新しい研究分
野が勃興し,人間の健康維持(健康破綻)機構を科学的な方法でより精緻に明らかにしてきました。これら重要でか
つ本質的な医学関連分野は多くの専門分野に細分化され,豊富な医学関連研究予算を背景に飛躍的な進歩を遂げ,結
果として,従来衛生学の担当領域であった研究活動分野に多くの新しい研究・学会活動が誕生し急速に大きな学術勢
力として成長しております。
今,基礎社会医学としての衛生学の役割は,DNA,細胞,組織,あるいは臓器機能と人体(健康)機能維持とのダ
イナミックな関係性を精緻な学術的手つきで明らかにしながら,コミュニティー環境(集団社会)と個人との,環境
保健医学的な,あるいは精神心理学的な交絡関係など,「社会的存在としての人間の健康とは何か」を真正面から研究
対象とするところにある,と考えています。細分化された医学関連諸分野がそれぞれの活動を独自に展開する中で,衛
生学が包含する統合学としての役割は極めて重要であり,社会が強く期待を寄せているところでもあります。
このような学術・社会状況下,理事会は学会研究活動の更なる活性化に向けて新しい活動方針を打ち出しました。
1.学会員の日々の研究活動を深化させながら,横のつながりも強化するべく連携研究会を新しく組織し,今年度,
まず16の連携研究会が発足しました。その概要は学会ホームページに詳述されているところです。
昨年度まで継続的な研究会活動を行っていた6つの研究会(環境リスク研究会(世話人代表 京大・工 内山教授),
室内空気質研究会(北里大・医 相澤教授),食品衛生研究会(自治医大 香山教授),ストレス学研究会(東大・医
川上教授),生殖次世代影響研究会(北大・医 岸教授),繊維・粒子状物質研究会(川崎医大 大槻教授))を包摂し
ながら関連する他学会会員と連携し,研究会活動を発展させるべく名称も連携研究会とし,衛生学・社会医学分野で
の重要な研究分野(遺伝子健康行動研究会(和歌山医科大 竹下教授),エピジェネティクス医学研究会(東京医科歯
科大 湯浅教授),健康経済学研究会(京大・医 今中教授),森林医学研究会(日本医科大 李講師),睡眠学研究会
(秋田大・医 本橋教授),生体応答研究会(京大・医 小泉教授),脳・神経学研究会(三重大・医 横山教授),分
子予防環境医学研究会(東大・医 松島教授),包括的トキシコロジー研究会(東大・医 渡辺教授),ライフスタイ
ル医学研究会(聖マリアンナ医科大 吉田教授))を加え,16の連携研究会が発足した次第です。もちろんこれからも
新しい連携研究会の提案がなされ,衛生学会会員と関連他学会会員とが共働することで,統合学としての衛生学研究
もその研究の質を深化進展させていくことと考えています。
2.科学研究費の配分方法が大きく変容していることは周知の事実です。従来の文部省系の研究費配分機関である日
本学術振興会(JSPS)と科学技術庁の主導していた科学技術振興機構(JST)の2つの機関により,前者は基盤基礎研
究を主体に,後者は競争的研究資金を主体に社会化応用科学技術研究支援に向けて運営されています。日本衛生学会
が主導する連携研究会が核になり,近い将来,予防医学・環境保健学関連の大きな競争的研究資金に結びつく研究者
組織実態を構築していく意味でも,この連携研究会の役割は重要だと考えています。
さらにこの連携研究会には,関連する諸研究分野からも意欲ある若手研究者が積極的に参加し,充実した時間を過
ごせるように運営されていくものと期待しています。
3.関連研究分野の他学会会員と共働して連携研究を展開し,衛生学会総会シンポジウム・ワークショップで,その
成果と展望を議論していくわけですが,その際,他学会の会員(衛生学会非会員)に対し,衛生学会連携(招待)会
員の制度を早急に整備新設して,学会費等の徴収や研究会・学会総会参加においても便宜をはかるなど,複数の学会
での協調した運用が必要と考えています。このような連携研究会活動を通じて,日本衛生学会の構成員も,医学,保
健学分野の充実を礎に,さらに,薬学や環境科学,生化学,がん学,遺伝学,脳神経学,認知行動心理学,教育学な
どの関連領域の研究者に向けて広く,拡大発展を図っていく必要があります。同時に,異分野の学術研究者が融合し
ていく際に顕在化するより普遍的な倫理課題についても,倫理委員会稲葉委員長を中心に,誠実な対応を行なってま
いります。
4.学会員の日々の研究活動の成果が,学会誌の充実に結びつくよう強く望まれます。学会誌の湯浅編集委員長もす
べての編集委員とともに意欲的に学会掲載論文の質的な向上と,将来展開に向けた機関誌としての役割を自覚され,
様々な活動を開始しています。
Environmental Health and Preventive Medicine,日本衛生学雑誌の双方とも,学会機関誌としての性格上,大学院生を
含む研究初心者の学術論文に,編集委員が懇切丁寧に指導的なコメントを与え,学会誌への論文投稿によって研究デ
ザインとその成果発表の技量が一つ一つ向上していくような役割も重要です。
予防医学,環境保健学関連では,既に国際的に著名な英文誌が多数存在する現状では,この機能は大変に重要なも
のがあります。このような地道な,研究初心者を含む会員一人一人の思いに合った編集活動こそが長い年月を経て,私
達の学会誌を国際的にも様々な意味から評価される高いレベルの学術誌に育て上げることができるものと信じていま
す。外国の著名な関連学術誌Nature,Lancet,Scienceなど,当初はわずかな数の有志が血と汗で築き上げた膨大な努力
時間の上に成り立っているという事実は,一時も忘れてはならないと考えています。“他者”の血と汗の結晶の外国学
術誌に,著名度・インパクトファクターが高いなどということで,論文を投稿掲載して学術成果を積み上げる行為は,
これからの日本が担う世界とくに,アジアのリーダーとしての資質から考えると,胸に手を置いて猛省すべき基本姿
勢であるかもしれません。
学会機関誌においても,衛生学関連の主要なテーマでの総説論文をその分野のリーダーたる研究者に依頼し,連携
研究会が主導するシンポジウムの発表を一連の連続論文として掲載する,アジアの国々を含む学会員一人一人の研究
者としての悩みや提言を端的に全会員が共有していくスペースを確保する一方,電子ジャーナル出版も視野に入れ,英
文誌のMedline化を進めるべく近い将来その成果が期待される編集実践が行われています。
もちろん編集委員長と編集委員のみで学会誌の充実が図れるわけではありません。全ての会員が様々な機会を捉え
て,我々の学会誌を少しでもより良くしていこうとする気持ちと,その実践が学会誌の生命線であろうと考えています。
5.統合学としての衛生学実践の一つとして,小生自身,理事長就任時より,社会医学主要関連学会理事長に呼びか
け,懇話会を開催しています。平成18年には三回の懇話会を開催いたしました。産業衛生学会(清水理事長 慈恵医
大),公衆衛生学会(實成理事長 香川大学医学部),疫学会(吉村理事長 福岡県保健環境研)に呼びかけ,それぞ
れの学会から理事長を含む2名のご出席をお願いしています。更に,社会医学分野を代表する日本学術会議会員として
北海道大学医学部 岸教授が,懇話会書記的な立場で京都大学医学部 今中教授が出席されています。
第1回懇話会(平成18年5月)では,各学会が抱えている重要課題とその展望について,適宜お話いただくととも
に,日本学術会議の変革の具体的な様子について討議いたしました。また,近代衛生学の展開の中で,ミュンヘン大
学衛生学講座ペッテンコッフェル教授の存在とその果たした役割は重要なものがありますが,小生自身,ペッテンコッ
フェル研究所の最近の動向について,話題を提供いたしました。
第2回懇話会(平成18年9月)では,平成19年度の日本医学会総会分科会(衛生学会総会,産業衛生学会総会)に
際し,学術会議が主導するシンポジウムを開催し,個人情報保護と社会医学研究等,主要な検討課題について広く会員
に議論と解決の思考を促して行く旨の提案が岸教授よりなされました。また,小生自身,予防環境医学研究機構などを
コア概念とする競争的研究資金を社会医学全体として獲得運営していくなど,具体例を挙げて討議しました。
第3回懇話会(平成18年12月)は文科省JSTの社会技術開発センターの前センター長・現参与の市川惇信先生(元
国立環境研究所所長・東京工業大学名誉教授)の出席を得て,学問の研究対象を矛盾世界と非矛盾世界に分類し,“非
矛盾・合理的思考の方法論で科学技術は進展してきた”との小論(社会技術研究センター長就任時の講演抄録)を参
考に,科学技術史を人間の持つ可能性の視点から再考する興味ある話題提供を受けての議論を行いました。
日本衛生学会大阪2007 では,有馬朗人日本科学技術振興財団会長・元文部大臣による特別講演とともに,討論会
「21 世紀社会医学研究のめざすもの」を開催し,この懇話会メンバーである関連学会理事長に社会医学関連研究所の
理事長・所長を加えての討議を予定しており,総合的社会医学研究マップが展望提示されるものと期待しています。
以上,日本衛生学会理事長としての立場から,新しい理事会による具体的な学会運営方針と実行案の概要をご報告
いたしました。会員諸賢の建設的なご提言と共に,さらなる主体的積極的な学会活動への参画を期待しております。
