研究レビュー

2010年6月

「歌木簡」論争に想う 大石泰夫

 私の独断的偏見なのかもしれないが、上代文学研究と上代文学研究者には他の時代の文学研究とその研究者にない特質があるように思う。それは以前に『文学・語学』創立五十周年記念号(第185号)にも書いたことであるが、上代文学というものが日本における最も古い時代の文学であるから、それ以前の日本における作品からの享受関係がないわけで、必然的に発生論的な思考をしがちであるということ。そして、そのこととも関連して、文学以外の資料にも敏感であるということである。したがって、中国文学との比較という視座や文字テキストの分析を超えて考古学・民俗学などに注目して、早くから学際的であったということもいえる。沖縄県の先島諸島の祭りや中国の少数民族の歌謡を調査するのも、日本文学研究者の中では上代文学研究者が突出して多い。かく言う私もその典型的な一人であるので、目的が違うのだから当たり前なのだが、民俗学・文化人類学プロパーからは奇異な目を向けられるのも事実である。もちろん、これは一般論であって、すべての上代文学研究者がこれに当てはまるというわけではないが、最近の「歌木簡」をめぐる議論をみると、そうした特質がよく現れているように思われる。あるいは同じ文学研究者でも他の時代を扱う方々には、不可思議な現象だと思われているかもしれない。

 その「歌木簡」をめぐる議論であるが、実に活況を呈している。例えば『文学・語学』第196号(2010年3月)でも小特集が組まれ、平成22年度上代文学会大会の木簡研究の最前線をテーマにしたシンポジウムにおいても「歌木簡」が話題となった。しかし、これは一例にすぎず、既にかなり多くの研究者がこの「歌木簡」について様々な角度から論文を発表している。

 ところで「歌木簡」とは、単にウタが書かれた木簡をいうのではない。これはウタを書くために用意されたと推測される二尺程度の木簡に対する術語で、栄原永遠男氏が名付けたものである。栄原氏は、「歌木簡」には本来ウタが片面一行に書かれ、この木簡は典礼の場で用いられたとする。それまでウタが書かれた木簡は、機械的に習書・落書とみなされていた。しかし、栄原氏の主張通りであれば、「ウタを書くための木簡」という存在が確認されたわけで、ウタの機能を考えるのに新しい視座を提供する資料となるわけである。また、2008年には、『万葉集』に収載された歌を記したと思われる木簡が三例も発見された。それまでウタが書かれた木簡は、上代日本語韻文書記の資料として検討されてきたわけだが、具体的な文学作品である『万葉集』を研究することに直接寄与する資料としての可能性を持つようになった。このことから木簡によって上代文学研究も新しい局面を迎えたともいえるのである。

 過去を振り返ってみると、考古学の成果が文献研究に寄与したことを挙げれば枚挙にいとまがないであろう。その中で上代文学研究に直接大きな影響を与えたものとして、筆者が鮮烈に記憶していることがいくつかある。例えば、「古事記偽書説」などもその一例だろう。古くは賀茂真淵から『古事記』に対する偽書説があった。その論拠の一つに、太安万侶という名の文字表記が、史書のものと『古事記』序文のそれとが異なっているということがあった。ところが1979年に奈良市此瀬町で発掘された墓から太安万侶の墓誌が発見されて、そこには『古事記』序文と同様の文字が記されていた。よって、文字の異同による偽書説が成り立たなくなったということがあった。もちろん、「古事記偽書説」を否定する論拠は他にもあるが、この発掘が大きな影響を与えたといえよう。

 また、1970年代から1980年代後半にかけて、高松塚古墳をはじめとして飛鳥周辺の古墳発掘が相次ぎ、それに万葉研究者が敏感に反応したことがあった。明日香村大字真弓にマルコ山古墳がある。この古墳の本格的な発掘調査が最初に行われたのが1977年のことである。盗掘にあって徹底して副葬品が持ち去られ出土品は少なかったが、築造年代や古墳の規模などから7世紀末から8世紀初めの皇族の墓であることがわかった。この古墳が真弓にあるということで、当時万葉研究では柿本人麻呂の殯宮挽歌が盛んに論じられていたこともあり、草壁皇子(日並皇子)の墓かと考える万葉研究者もいた。しかし、墓から出てきた人骨を分析したところ、30歳代後半以上の被葬者であることが判明した。すなわち、草壁皇子の死亡年齢とは被葬者の年齢が合わず、その可能性はないわけである。文学研究からは余談になるが、マルコ山古墳はその後も発掘が数度にわたって行われ、当初は円墳と発表されていたが、2004年の調査では六角形墳であることがわかった。六角形墳の規模の大きなものは珍しく、円墳の高松塚古墳やキトラ古墳の被葬者よりも身分は上ではなかったかと見られている。次いで1984年には、高取町大字佐田で束明神(つかみょうじん)古墳の発掘調査が行われた。それによって、この古墳がマルコ山古墳と同時期に造られた終末期古墳で、天皇皇后級の古墳にみられる八角墓で大きな石室を持ち、残されていた歯牙の分析から被葬者は青壮年期であることがわかった。こうしたことから、この古墳の被葬者としては草壁皇子(日並皇子)を有力視する考えが生まれるのは当然であろう。しかし、束明神古墳の発掘に対しては、万葉研究者は冷静であったように思う。マルコ山古墳の前例があったこともあり、岡宮天皇(草壁皇子のこと)陵も至近の地にあるからであろう。昔語りのように30年前のことを例に出したが、もとよりその時代よりも考古学の研究は大きく進み、特に文字研究でもある木簡研究は精緻なものになっている。

 二尺程度もある板の片面に歌を書くとは、いったいどういう用途で行われたのだろうか。「難波津の歌」ばかりが多く書かれていたというのも気になる。『万葉集』収録歌と同じとみられる歌は、仮名表記が『万葉集』と異なっているという問題もある。書記されて今日に残された『万葉集』と、上代のウタのいわば「生態」とを切り結ぶ手がかりが出てきたことに筆者も心躍るような気分になる。ただし、現状では出土遺物が多いわけではなく、そもそも「ウタを書くための木簡」ということを疑問視する見方もあり、いささか過熱気味の風潮に疑問を呈する見解もある。

 文献が少ないだけに、その「生態」を知るために様々な角度からのアプローチをしてきたのが上代文学研究であった。木簡研究を文字資料としてのみ捉え、上代日本語韻文書記についての着実な研究の積み重ねをすることは必要である。しかし、「コロンブスの卵」の例えのように、大胆な推論に基づいた議論も必要である。そのコロンブスもまた、アメリカをインドだと思い、新大陸とは思わなかったのである。上代文学研究は、後に改められることを恐れない勇気を持って、ロマンを求めるところに持ち味があるようにも思うのである。

(おおいし・やすお 盛岡大学教授)

2010年1月

希望の〈学〉としてのフォーラムをめざして―私たちの時代の〈坂の上の雲〉のために―神野藤昭夫

 木を見て森を見ずということがある。昨今は、木どころか、枝だとか葉を眺めることに関心が移っている。細部を精緻に凝視することはたいせつなことである。細部から世界全体の風景が変わって見え出す瞬間は、学問の醍醐味でもあろう。

 もう十数年前のことになる。北京で日本学の小さな研究発表会があった。まだ日中の学術交流が盛んな時代ではなかったから、多くは、中国現地での研鑽を基盤にしたかの地の人の研究発表である。その司会を、中国側の研究者とともにつとめた。どの発表も論題が、証拠にもとづいてじっくり観察され分析され、新たな認識として捉え直され、深められるというふうではない。一本の木をしっかり眺めるのではなく、そこから周辺の木々、ついで林の話になり、さらに漠然たる森の話に広がって、全体的な視野のなかで啓蒙的結論に至るというふうであった。

 私は、それが不満だったから、木をしっかり見ること、そこからの発見を根拠として、論を立てること、それによって目の前にある木をみずからの目で柔軟に認識し直すことが必要ではないか、という趣旨の発言を繰りかえした。正直なところ、研究とはどういうものか、あたかも大学院の演習指導でもしているかのような錯覚に囚われた。

 すると、当時は数少ない日中双方の研究状況を知る中国側の司会者が、中国では、話を大きく大きくする。日本では、話を小さく小さくする。そういう研究傾向があると発言した。彼我の違いを架橋する巧みな指摘である。こちらの研究方法を確固たる善意として教える前に、相手には相手の文化観や研究環境があることに気づかされる小さいが忘れがたい経験となった。

 日本文学の専門的な研究者相手だったら、敏感には気づかなかったかも知れないもうひとつの経験がある。一九九三年の北京日本文学研究センターでのこと。中国各地から集まった日本語を教える若手の先生たち三十名近くに、日本の古典文学を教える経験を持った。そして愕然とした。彼らの圧倒的多数は経済的発展を遂げた日本の成功に関心があって、どうやら日本の文化や文学にいっこう興味を抱いたり価値を見出したりしているわけではないと肌身に感じさせられたからである。あたかも二十世紀の始め、清朝末期に、多数の中国人留学生が日本にやってきて学ぼうとしたのは、日本そのものではなかった。その事情によく似ていると思ったのである。

 もっと愕然としたのは、私じしんについてであった。どうやら日本文化を東アジア文化圏の周辺文化としてしか見ていないらしい人びとに向かって、日本文学の相貌について語る自覚を持っていなかった愚かしさについてである。みずからの知る日本文学の精髄の一端を得々と語れば責務を果たせる、と思っていた。だが、自分じしんが、他者に冷静かつ柔軟に立体的な日本文学像を魅力的に語ってみせる、そういう力量がなければならない、少なくともそういう心がけぐらいは持っていなければならなかったことに気づかざるをえなかったからである。

 だが、そこで持ち合わせているのは、しょせん日本の近代国民国家が世界に伍して、発信してゆくにふさわしいものとしてどこかで正典化された固定的な日本文学像の断片でしかなかった。明治という西欧化の時代風潮からは遅れた国文学は、みずからのアイデンティティを示す〈学〉として成立することによって、求心力を高め、やがてはその独自性を伝統として強調することによって、狭隘なナショナリズムに彩られた地歩を固める歴史をたどったわけであった。私は私なりに、自分の研究をそれなりに深めていたつもりではあったが、実際のところ私が漠として抱いている日本文学像は、まさに坂の上に浮かぶ一朶の雲の輝きとして見出された〈学〉が教条主義的な正典へと歩んだ国文学像の刷新から、根底的なところではなにほども自由でない自分の〈知〉を反省せざるをえなかったのである。

 その後、心がけたのは、近代の国文学という〈学〉のありかたを、はっきりさせること。それは、近代の〈学〉が捉えた日本文学像をはっきりさせることに繋がる。そのうえに立って、私たちはそういう日本文学像じたいを問い直し、刷新してゆく必要があるという問題意識であった。

 そして、その時に大事になってくること。それは、みずからのうちに〈他者〉の目を抱えることであるにちがいないと考えた。

 おそらく日本の文学なるものは、漢字文化圏の広がりから眺望したら、近代にいたるまで漢字による表現を主流とする歴史として見えて来るだろう。明治でさえ、私たちが思う以上に、漢文表現力を持っていた時代として評価されるかもしれない。それは、東アジアからの視点にとどまらない。むしろ、西欧の、広く東アジアを眺めわたす力量を持った研究者に問うてみたい気がする。たとえば、かな文学の特色ある伝統は、それじたい特立してあるわけではあるまい。漢字文化圏という共通基盤とそれと補完的な緊張関係をなして成立し、その相互関係のなかで長い歴史を歩んで来るとみられよう。

 だが、〈他者〉の目を抱え込むことは、もとより異国をまなざしをそのまま受け入れることではない。

 私が知っておどろいたのは、中国の歴史区分としての〈古代〉の捉え方である。たとえば、『中国古代服飾研究』、『中国古代小説演変史』などの書を開くと、そこでは清朝までが古代に含められている。『中国古代小説百科全書』のサブタイトルはご丁寧に「上古秦漢魏晋南北朝・唐五代・宋遼金元・明・清」とあって、日本の中国学者たちが侃々諤々論じていた中国史の時代区分論などとはまったくちがう。

 やがて中国の中学生が学ぶ歴史教科書、『入門中国の歴史 中国中学校歴史教科書』(明石書店)を開いておどろいた。分量は翻訳にして本文一二三二頁。古代が五割、近代が四割、現代が一割の比率である。そこではなんと古代とはアヘン戦争(一八四〇~四二)の前までなのである。近代はアヘン戦争に始まる迫害の歴史、現代は中華人民共和国の成立による解放と社会主義建設の時代として捉えられている。十九世紀半ば、清朝の衰退期まで古代なのである。

 このような見方は、〈史〉の国ともいうべきかの国の、それぞれの王朝が新たな時代を正統化するために捉え直され、書き継がれた正史の伝統に根ざすものであるにちがいない。

 じつはこうした歴史観が、前掲の書名には反映しているのであった。それは中国内部にとどまらない。『日本古代文学思潮史』とか『中日古代文学比較研究』などの日本文学研究の書もまた、江戸時代までを対象とするところにまで及んでいるのである。

 私たちは、こうした異質な眼差しがあるということをもまた知ることがたいせつなのではないか。これに対して、近代の国民国家形成の根拠としてつくり上げられた日本文学像を対置してすむという問題ではない。むしろ、〈他者〉の目を意識し、抱え込むことによって、日本文学とはなにかを問い、新たな日本文学像を柔軟に刷新してゆくことこそ、私たちじしんが、国際化という他者との関係において、自己認識を深めるということなのではあるまいか。

 こうした大局のなかで、現今の私たちの研究は、きわめて精緻なものとして、深められ、数多くの論が情報として氾濫している。木の葉の葉脈からさらにその細胞構造まで突き詰めるような研究がありながら、そのことによって一本の木がどのような姿のものとして捉えられ、さらにはどのような鬱然とした森をなしているのか、お互いの認識をリンクさせ立体化させ、共有化することができないでいる状況にあるのではないか。

 私たちは自分の研究が、他者とどのような関係にあり、他者との関係のなかで、みずからの研究が連綿としてつづく学問の歴史の連環のなかで、どのような場を占め、意義あるものであるかについて自覚的である必要がある。スペシャリストたる自己の内に、常に他者性を抱えてオルガナイザーたる精神を失わない志を持つことがたいせつではないか。

 制度的なあるいはおのれのうちなる縄張りをこえて、他者を意識し、連携して、〈学〉の広場性を回復することが求められているということであろう。新たなる流行による活性化とそこから生み出される不易なるものへの手渡し、それが〈学〉なるものを連綿と続く時空へと繋げるものである。みずからの微細な研究とその意義が、明治のごとき坂の上でなくてよい、自己認識の学としての日本文学像をつくりあげてゆく一朶の雲となることを夢みなければ、私たちは私たちの〈学〉のこれからに希望と矜持を持てないのではなかろうか。

 研究の自閉からフォーラムへ。時代やジャンルといった専門領域をこえて、交流深化させてゆく場として、私たちの全国大学国語国文学会を活性化させてゆくことには、大いなる意義と使命があるように思う。

(かんのとう・あきお 跡見学園女子大学)