『印刷のデジタル化、来し方、行く末』1997.11.16
ご紹介にあずかりました中西です。
「印刷のデジタル化、来し方、行く末」と言うテーマですが、まずは「行く末」からお話しましょう。いきなり行く末からやっても馴染みもないですし、中々入り込めないでしょうから、デジタル化と言うものが、歴史的にどういう意味を持っていて、それから今がどうで、これから何が起ころうとしているのか追って行きたいと思います。
中西印刷は明治3年の創業で、元々は木版印刷の会社です。それから、活版印刷に変わって、現在はオフセット印刷専業です。江戸時代から書肆業をやっていたと考えられています。大変古い会社で、典型的な家業です。
それで私、大学出まして、実は印刷なんかやる気がなくて、しばらくサラリーマンをやっていたのですけれども、結局、経営者の子はサラリーマンがつとまらないんですね。印刷屋に戻って来ました。
私が家に戻ってきたときは、活版印刷が主体でした。親父というのが非常に信念をもってまして、やはり活版と言うのが印刷の王道であり、主流の道だというのです。だから、印刷の近代化をやるなら、平版なんかに脇目をふらず、活版を近代化することによって時代を乗り切ろうとしていました。
で、何をやったかというと、モノタイプの近代化ですね。御存知かと思いますが、紙テープにパンチャーで鑽孔しまして、それを機械が読み取って、活字が鋳造され並んで出て来るものです。非常に面白い。いかにも十九世紀イギリス的と言いますか、テコとか歯車を使った機械文明の極地です。親父がこれに惚れ込んでおりましてね。モノタイプこそが未来を開くんだと言ってました。
モノタイプの近代化で何をやったかと言いますと、モノタイプとワープロの統合ですね。モノタイプに使う鑽孔テープは実はこれがコンピュータの八単位の紙テープそのものなんです。今から二十年から三十年前のコンピュータは入出力に紙テープを使ってました。覚えておられる方も多いと思います。私、コンピュータ少しかじっていましたから、これは使えると直感しましてね。この穴あきの紙テープの近代化をやれば意外といけるかもしれないと思いまして、ここを電子化出来ないかということを小池製作所という、このモノタイプのメーカーに依頼したんです。それで電算活版と言う恐ろしいものをうみ出すんです。
これはワープロで打ったフロッピーをモノタイプ用の紙テープに変換し、その上でワープロのように電子的に校正して、また紙テープを吐き出すんです。まこと、活版用のワードプロセッサーです。出力がプリンタではなくて、活版と言うおそろしいワープロです。これで二年位ものすごく苦労しました。ですが、結論から言いますと、この機械は全世界で二台あったんです。一台は中西印刷に入りました。一台は小池製作所のショールームに長いことあったんです。結局全然売れませんで、最後に中西印刷がもう一台責任持って引き取った。開発費をこめると一台六千万から七千万円位になると言う恐ろしい機械なんですが全く駄目でした。何が駄目かというと、モノタイプというのは文選の近代化なんです。ですから文選はある程度近代化出来ても、植字、いわゆる、ページアップになると今まで通り、職人の腕頼みに戻ってしまう。
いくら文選を近代化できても、原稿に訂正が入ると、そこはやっぱり手で拾って、手で組まなくてはならない。「クワタが多い版やなあ」とか言いながら職人さんが直すわけです。そこまでやったら気が付くと思うんですけども、これでは近代化は無理なんです。それで、親父に言ったんです。このやり方での近代化には限界があると。だから、活版の職人さんも沢山いることだし、親父が電算活版をやるんならやるでいいし、私も協力するけれど、これ以上の近代化をするなら活版にこだわっていてはだめだ。いっぺん電算写植と言うのを買ってみませんか。と言う相談を持ちかけ、電算写植を買いました。
コンポテックスと言う機械を買いまして、活版の職人さんが電算写植のオペレーターに転職しました。ふつう、コンピュータというと、若いオペレーターをあてるものですし、先に電算写植をいれていたところからも、活版職人さんには電算写植は無理だとさんざん忠告も受けたのですが、親父がきかなかったんです。結果として親父が偉かったんですが、若いもんに「組み」なんか出来るはずがないと言ったんです。これは後で、重要な問題になって来ます。活版であろうが、電算写植であろうが、コンピュータであろうが、何であろうが組版に変わりがないのだから、これは組み版がわかっている活版の職人がやるべきものだと。で、植字の課長さんだったんですが、親父は「あんたちょっと息子が面白いことをやるてゆうて言うからいっぺんやってみてくれんか」と言ってオペレーターとして配属してくれた。これがあとあと本当に財産になりました。
やはり電算をいれてみるとすごかったですねえ。自動化が出来るんです。文選だけでなく組版の自動化が出来る。つまり、モノタイプだと、今で言うところのシングルフォント・シングルサイズなんですね。同じ大きさの漢字、同じ書体、五号の明朝なら明朝しか出ないと言う欠点があるんですけれど、電算だとそうしたマルチフォントのものまでかなり自動化が出来てしまうのです。しかも、原稿がフロッピーで入って来たら、そのまま使えると言うメリットもある。
それでまあ、電算が順調に動き出すと、活版の職人さんがわりと自主的に電算をやらせて下さい、電算写植の職人に変えて下さい、と言われました。このことが、中西印刷の電算化を推進する上で大きな力になりました。それはなにかというと、組み版の伝統が、活版から電算へスムーズに移行できたということなのです。元々、中小以下の印刷会社には教育すると言う概念がない。だから、昔は十年かかって活字の拾い方を覚えると同時に、組版センスも鍛え上げて、それも含めて、活版の職人芸だったわけです。ところが、電算写植には活字の拾い方を覚えるというような熟練の過程がなく、いきなり組めます。確かに若い電算のオペレーターと言うのは大体二カ月あればもう「組み」ます。これは、活版の時代では考えられない。今だったら、ワープロなんてもの高校から触ってきますから、高卒すぐでも電算写植を使えます。でも、やはり、組版の常識、組版の基本センス、そう言うものは、古い職人さんの方が遥かにいい。だから、若い人の場合、確かに立ち上がりは早いけど、ちょっとややっこしい物を組ませると、とんでもないものが出来上がってしまう。この、とんでもないものが出来上がるというのは現状のDTPがそうです。ほんとに、とんでもない組版がちまたに溢れています。印刷を知らない人が組んでいるんでしょうねえ。組み版のセンスというのを昔は体で覚えたんですね。だから職人さんは強い。たとえ道具が変わったとしても組み版センスのようなものは同じことなんだと言うことをこのとき思い知らされました。
結局、十人近い活字の職人さんが電算の職人さんにかわられて、今でもかなりの数の方が電算写植の職人さんとして勤めていただいてます。いかにも職人さん気質ですけど、電算の職人気質と言うものもあるんです。
ここまでが、来し方です。次は現在の動向ですかね。
一九八〇年代後半位になってくると、目に見えて活版が衰退していくんです。手動写植も減ってきます。それでも親父はまだまだ活字の時代が続くと言い続けてました。
しかし、一九九〇年位になると資材が供給されなくなってくる。亜鉛版の凸版が出来ない。それから罫がなくなり、大きな活字が供給されなくなる。そういうことを見ていますから活版に未来はない、もう無理なんじゃないかと考えざるをえんわけですよ。一九九一年にそのことで親父と大激論というか、大げんかをやりました。
親父が最後にいったのは、活版の職人さんをどうするんだということです。活版の職人さんもこのままでは行く所がない。確かに電算の職人さんとしても優秀かもしれないけれど、それでもやはり活版職人としての熟練度とは違う、それを活用できなくて変えてしまってどうする気だ。と、言うんですね。しかし、どう考えても活版と電算写植を両方とも工場に抱えていくのは、デメリットが多すぎる、活版の生産量が減ったとしても文選の活字鞍を減らすわけには行かない、漢字がある限りは、限界があるんです。工場の面積はちっとも減らないです。それに電算写植の機械が増えていく。これではスペースがなくなる。どっちかに絞らなければいけない。そうするとどちらに絞るか、これは明白でしょうと何日も何日も喧嘩しました。なかなか承知してくれない。
最後には九一年春闘ですか、労働組合の方からどうするんだとはっきりしてくれと、どっちかに決めてくれないと我々だって困るとの話が出て、結局一年後に廃止、雇用は確保しますということを発表しました。その代わり、転換の際に努力はして欲しいと言いまして、残った半分ぐらいの方が電算に行きまして、半分の人が製版の方に移られました。それから現在に至っています。一九九二年の六月ですから、ちょうど今から五年前程前に、活版を全廃したことになります。 その時の経緯を書いた「活字の消えた日」というのを出版して、それ以来あちこちで講演をさせて頂く様になったわけです。現在も活字をやっているところは、京都ではほぼなくなりました。東京ではまだあるらしいですね。大日本がまだ残っているらしいです。ただ、活版はもう産業としては終わりです。親父が一時言っていたんですけども、国から補助金を出して貰って伝統産業として保存してはどうか。「京の活版保存会」とか名乗って、イベントでもあると皆で出て行って活字でも拾って見せる。しかし、それはもう産業とはいえない。
活版の廃止はデジタル化の第一歩だったわけですけれど、この意義はどこにあるのかということですね。単に生産手段がかわっただけじゃないわけですよ。フロッピー入稿の話をさきほどしましたけれど、これが象徴的ですね。デジタル化であればあらゆるデータがあらゆることに使えると言うことの原点がそこにあるんです。フロッピー入稿されれば原稿を書いたそのものがデータとして使えるわけです。原稿用紙に書いたものを文選で拾うというのとはわけが違う。いったんデジタル化されたデータはいわば流動性をもっていって、なんでも簡単にかたちをかえてしまう。これがデジタル化の最大の意味です。
活版のときは文選のコストが非常に高かったけれど、これがフロッピー入稿だとほぼゼロに近くなっています。今はフロッピー入稿が七〇%から八〇%近くになっていますから、このコストダウン効果はすごい。やはり「革命」でした。しかも、今まではフロッピー入稿というと文字に限られていたのですが、最近デジタル画像の出現で線画や写真まデジタルで入稿するようになってきました。こうなるとフロッピーではなくて、MOですが。
さて、デジタル化というとまっさきにてでくるDTPですが、実はこれ、印刷屋の道具ではないんですね。誰のものかというとヒッピーなんです。ヒッピームーブメントからはじまった道具なんです。マッキントッシュを作ったスティーブ・ジョブスは、元ヒッピーです。これは、完全に六〇年代カウンター・カルチャーの洗礼を受けた人なんです。
現在のDTPを作った人、パソコン文明のムーブメントを作った人の殆どが、ドロップアウトとヒッピーそんな人ばかりです。コンピュータの本流であるメインフレームから出てきたという人が全然いない。メインフレームをやるような人はIBM等の大企業に行ってしまったんでしょうね。
これは、なぜかといいますとね。DTPはヒッピーの一種の情報民主化のこころみなのですよ。つまりマスメディアを握っているのは大資本ですよね。非常に綺麗なパンフレットやチラシを作って、訴求力の高いものを配れるのは金持ちだけということですね。だから民主主義と言っても、手段を持っている人と持っていない人では全然違うんです。つまり、高度な印刷手段を持っている人は大衆への訴求力が元々違うんですよ。これはおかしいんじゃないか。民主主義であるからには同じ立場で声を上げられなければならないじゃないか、という問いかけからDTPははじまっているんです。だから、我々も大出版社と同じようなものを我々の力で、しかもパソコンの様なカジュアルな物で出来ないかと言うその発想から出てくる。
マッキントッシュの始まりの時、有名なキャンペーンがありまして、マッキントッシュの発売は一九八四年なんですが、そのとき「一九八四年は一九八四年にならない」と言うことを言います。一九八四というのはこれはね、オーウェルと言う人が一九四八年に「一九八四」と言うSF小説を書くんです。これは欧米では非常にポピュラーなもので当時の未来社会である一九八四年の社会をえがいたものです。コンピュータによって全部見張られている、管理されているというような非常なディストピアを描いた小説です。当時これはスターリニズムを批判しているというような言われ方をしたんですけれども、かならずしもそうではなくて、根本的な機械文明への懐疑を描いたと言われています。だからこそ一九八四年になったときに、マッキントッシュが発売されて「我々がマッキントッシュを作れば、そんな中央の集権ではなくて我々個々人の力で皆、表現する力を持つことが出来る。そこにこそパソコン・ムーブメントの力がある」と言ったわけですよ。そういう精神から本来は始まっているんです、パソコン・ムーブメントというのは。
ところが、日本に持って来ると、あっという間に金儲けの道具になってしまう。日本でDTPと言うのがどういうように使われているかというと写植代替機ですね。思想も何もあったもんじゃない。 今、恐らく多くの会社でやっている実際のDTPの使い方はこうじゃないですか。DTPで印画紙を出しますが、その後切り貼りで版下を作ってませんか。心当たりないですか。これ、私聞いたんですけど、多いですね。確かに程度問題があります。殆ど組み上がってて後ちょっと、丁数とか、柱とか貼ってますとか、そのレベルのもありますし、DTPで全部棒出しして、後は今までの手動写植と同じ版下形式で作ってます、という所もあります。
全く貼込なしで、フルデジタルでやられている会社と言うのは、非常に少ない。で切り貼りでやっている限り、経営者にとってみれば、DTPと言うのは安価な写植代替機でしかないです。安い写植、自動写植機が出来たなとDTPを使う。今まで電算写植機が一億や二億していたものが、百万円やそこらで、電算写植機並のものがが買える、こんなすごい話はないと飛び付くんです。
そこから出てくるのは何かというと、一億で買えたものが百万円で買えるわけだから、当然単価は安くなるに違いないという思い込みです。同じようなことをメーカーの営業が言うんです、マッキントッシュさえ入れて頂ければ、コストが半分になります。いや、三分の一になります。経営者は、そこでコストが半分になる、儲けが出るその儲けの分を労働者に配分しようなんて事は全然考えません。自分で使おうというのならまだマシなんですけれど、価格を下げようと思うんです。これで、価格半分になる、コスト半分になって、価格半分にすれば、今まで取られた仕事が全部取り戻せる、と簡単に思ってしまう。
これが全ての根源で、これをやったもんだから日本の印刷単価の下落はひどいものです。現在、どう計算したって組版代はタダに見ているとしか思えない、という入札での落札価格にお目に掛かります。だいたい、紙代なんてそんなに安く仕入れられることはないですし、印刷の値段と言うのもそんなにむちゃできない。そうやって引き算していくと、組み版代になにも残らない。
プリプレスはタダでやっているとしか思えないという話になってしまう。マッキントッシュだとタダで出来るって錯覚してるんです。これを支えているのは何かと言うと、恐らく長時間労働です。しかも殆どサービス残業じゃないですか。
こちらは組合の集会ですから、それらの情報も入ってきていると思いますけど、今、五〜六人でやっているような印刷会社での実態はすごいですよ。私も経営者ですけど、ようそこまでやるな、と言う感じです。残念ながら無茶苦茶な事の出来る様な会社に組合はないとは思いますけど。たとえば、女子労働者を深夜まで働かせるのは普通です。しかも残業をさせても、残業代を払わない。うちでマッキントッシュオペレーター募集で面接して、前の会社どうでしたかと、何で辞められたんですかと聞くと、夜中の二時まで働かせるのが毎日続きましてとかいわれることが多々あります。。
そう言うことをやっている会社に限って、値段は絶対安いです。と言うことは、値段の下落は明らかに労働者の犠牲の上に成り立っているであろう事は当然推測できます。これは労働基準法に違反している犯罪なんです。だから、まず組合の方がその辺のことはしっかりとやってほしい、僕らがあんまり言うと独占禁止法違反と言われるのでいいにくいのですが。最も人件費のかかる組み版代がゼロということは矢張りゼロで働かせたとしか考えられない。そういう値段で取ってると言うことは、タダでやってもらっているんでしょうねえ。
活版は残業も含めて一日十時間労働という規制がかなり厳しかった。実際問題として、十時間以上もはたらけるもんじゃない。しかも、有害労働でしたから、出来ない。ところが、マッキントッシュなら出来る、座っているだけだから、まあ、やれって言われればやる。できてしまう。結果としてはどめがきかなくなってしまう。
コンピュータをいれて生産性が倍になるということは、本来、仕事が楽になるはずですよね。そう、生産性が倍になって値段が同じなら、皆さん幸せになれるでしょう。つまりは、元の半分の時間しか働らかなくなていいんですよ。同じ時間やって、給料を倍にしてもいい。これなら幸せでしょう。ところが、生産性が倍になっても、値段が半分になったら、仕事も倍取らないとやっていけない。ところが、倍の仕事はないんです、今の日本には。そうなったら明らかに生産過剰ですから、皆が不幸になるしかない様な状況になっているんです。
私は、経営者ですから働くのも好きですが、休むのも好きなんです。子供と遊ぶのが一番好きなんです。なるべくはそういう生活を送りたい。適度に働いて、あとは家族とすごす。それが幸せな人間らしい生活というものでしょう。その為にはやはり時短でしょう。時短をやったほうがいいですよ。
でも、あえて経営者の顔に戻りますけど、時短というのは一社だけやった場合、その会社は潰れるんです。そこだけ生産性がさがりますからね。やる以上は皆さん一斉にやってもらわないとしょうがない。それには、査察です。軍縮問題で査察と言うのは、非常に重要な問題です。軍縮をとりきめても、抜け駆けする所が必ず出ます。そりゃそうです。他が軍縮しているときに秘密で軍拡しとけば、いざというとき圧倒的に有利です。いま、時短を推進していて思うのですが、この抜け駆けがすごいですね。一社だけ時短をやると「うちは土曜もでてます」とすぐよその社が宣伝にいく。だから、時短を決めた場合には、その後に抜け駆けをやって働いている所がないか、徹底的な査察をやる。そうしないと、皆さん幸せになれない、なんか変な構造ですね。
結局の所、コンピュータによる生産性向上分が皆食いつぶされてしまう、どっかでその生産性が食われている、誰が食っているんだろう。たとえば、印刷価格が半分になりますよね。すると、どこかの会社や役所ではその分利益がでます。それが労働者に還元されない。どうしたかというと投資です。日本で儲けた金を何に投資しているか、日本の機関投資家というのはアメリカの国債に投資しているんです。だから、結果として何をやったかと言うと、日本が豊になるべき所をアメリカの国債を買ってるんですね。しかもそれが、円高で全部帳消しになってしまう。だから、アメリカ人が贅沢をする為に日本人は一所懸命働いたと言うことなんです。これは暴論といえばそうなんですが、そうとしか考えられない。これだけ一所懸命働いて、生産性も向上させて、何で我々が豊にならないのか。かえって、価格が下落して皆が不幸になっている。
今年、全国印刷工業組合連合会から、週四十時間制延長に関する請願の署名が回って来たんですけど、私は署名しませんでした、反対です。時短をやるべきです。で、査察もやるべきです。査察がないから今までは結局、正直者が馬鹿をみる。時短をやった所から馬鹿をみるんです。週四十時間規定の罰規定適用なしってあれはなんなのですかね。私はあの件については腹が立ってしようがない。
さて、本題にもどって、そろそろ「行く末」にいきましょうか。デジタル統合と言うのがあります。これがDTPの次の段階です。どういうことかというと、今、フロッピー入稿により文字はデジタルになりました。だから、文字は最初から終わりまで全部デジタルデータです。一番最初にワープロで入力された原稿は、印刷にまず使われます。印刷に使われた後、最近良く使われるのがインターネットに使われます。うちでも幾つかの本はそう言う使い方をしてます、雑誌が多いですけど。つまり、文字だけですけど、いろんなメディアへのマルチ・ユースの可能性が開けてくる。これが文字だけだったのが、今、罫・写真等に広がりつつあります。だから図形もMOで入稿してきてそれをそのまま使う、と言うようなことが普通になってきました。いや、普通とはまだいえないかな。
写真とか図形がデジタル化されると、印刷工程がさらに変わっていくと思います。今までの平版印刷工程では電算写植やDTPで文字を作ります。そこまではデジタル工程です。でも、版下の校正があって製版があって、刷版を焼いてそれから印刷をするという工程は元のままです。それがどんどんデジタル化することによって、その工程のあらゆる部分がコンピュータ作業に絞られて来ています。DTP上で写真を貼り込むとなれば、製版工程がかなりなくなります。
その次の段階として、CTP、コンピュータ・トゥ・プレートという言い方がされてますけども、イメージ・セッターから刷版を出力することが今、一般的になって来ました。この前も、IGASで一番人を集めたのがその分野です。コンピュータから直に刷版を出すということですね。恐らく二十一世紀初頭にはCTPが出来ない会社は淘汰されていく可能性が高いと思います。コンピュータ・トゥ・プレートと言うのが出来ないというのは技術的に遅れた会社とレッテルを貼られてしまう。コストも違いますしね。ここまでいくと製版は失業します。現行の製版の職人さんは全く仕事が無くなってしまいます。
しかしその辺は考えようでして、コンピュータの方へ、今現在、殆ど写真の網撮りはモノクロスキャナーにしろ、カラースキャナーにしろ、スキャナー使ってますから、スキャナーの職人さんがちょっと仕事が増えるなと、仕事の範囲が広がったと思えば、別に製版の仕事が減ったわけではないんですけれどね。
ここでもう一遍言いますけど、たとえばコンピュータ・トゥ・プレートにしたら、生産性が向上する訳ですから、その分、労働者に還元できるはずなんです。しかし、多分、このままで行くと値下げ競争だけでしょうね。製版代ゼロと言う時代が、又あるんでしょうね。懲りないからね。経営者は。
その次がオンデマンド印刷という、コンピュータ・トゥ・シリンダー、CTSと言います。コンピュータのデータを直に印刷機の版胴に送り付けるわけです。だから、刷版すらいらなくなる。コンピュータで作った原稿が校了になったら自動的に工場のレーンに送られて自動的に刷り出す、こんなイメージがオンデマンドプリンティングと呼ばれているものです。ここらあたりまでいくとフルデジタルと呼べるでしょう。
実はオンデマンド印刷機というのは今から六〜七年前に発売されています。それからかなりたっていますから、あちこちの印刷会社で見掛けるようになってきました。しかし普及はいまひとつですねえ。やっているところも殆ど採算は取れていないでしょう。機械が高すぎるということもあるけれども、根本的な原因は、切り貼りDTPのせいなんです。
コンピュータ・トゥ・プレートとか、コンピュータ・トゥ・シリンダーとか言ってますが、版下切り貼りをやっていたら、そんなこと絶対出来ないです。コンピュータの上で画像もやり、それから、写真もやり、そして外字、難しい漢字の貼込とか、それらをコンピュータの上で出来る技術力を持っていないとコンピュータ・トゥ・プレートなんて出来ないです。ましてやコンピュータ・トゥ・シリンダーなんか出来ません。印刷屋の若旦那が、慌ててオンデマンド印刷機を買って、大失敗しているというところじゃないですか。
失敗するのはデジタル化がしっかりしていないからです。昔ながらの切り貼りをやっているようではだめなんです。DTPを、安価な写植代替機としているような印刷会社では、本来次には進めないんです。フルデジタルとは単なる工程の電子化だけではすまされんですね。今まで、何人もの手を経ていたものをコンピュータオペレータが一人で背負わなければならなくなるということもそのひとつですね。今まで、組み版には組み版の製版には製版の知識があったわけですが、それがみんなコンピュータに凝縮される。それには新しい教育も必要でしょう。今までの延長上にフルデジタルは描けないんです。そこを根本的に間違えている。
DTPは、人間を幸せにするんだと、そういう意識を持ってフルデジタルをやる。そういう意識があって、初めて次の展開に進めるんだけれども、その前の段階でみんな踏みとどまっているという感じですね。
確かに、フルデジタル化をすれば雇用は脅かされます。しかし、その時に覚えておいてもらいたいのは、印刷の技術というか、小手先の技術は変わっても、心は変わらない。印刷と文字を愛する心みたいなものは変わらないということです。それから、組版の技術、いかに美しい誌面を作るかと言う考え方、そう言うものは、何に変わっても同じことです。
活版のときの例ですけれど、文選のほんとの、ものすごい職人さんは最後の最後までコンピュータを触りませんでした。でもコンピュータ化最大の貢献者だったのです。何かというと、漢字コードを調べる作業をされていました。文選の職人さんだから漢字を知っているんです。漢和辞典を引いてその漢字がJISコードの何番になるかと言うことを書いてくれるです。これはコンピュータ化においてもの凄く助かった。これがあったからこそ、中西印刷は活版の時の漢字水準をおとさずに電算化できました。その人は最後までその作業でコンピュータに触れずに全うされた。私達に感謝されたうえで退職されました。
そう言う意味です。精神は変わらないと思うんです。デジタル化は、自信を持って進めばいいんじゃないかと思います。ただ、今までの印刷を培ってきた精神をもっていけば、印刷の品質低下をまねくことはない。このままだとオンデマンド印刷の初期にはひどいものがあふれるでしょうね。DTPの初期がそうでした。今後、恐らく二〜三年したら、オンデマンド印刷機で刷ったとしか思えないひどいものが、多分市場に出てくるでしょう。これは止む終えないです、そういう人はあとを絶ちませんから出てくると思います。
技術の進歩にはあらがえません。それに向かって、雇用をどのように確保するのかをみんなで考えて頑張る、その方が得じゃないでしょうか。経営者ももう少し勉強すべきだと思います。未来にどういう技術がいるから、今機械場でどういうふうに人を教育していったらいいのかを考えればいいと思うんです。今、未来がどうなるか分からないから、今何も出来ないなどと言う経営者は、経営者としては失格だと思います。それはもう、経営者とはいえない。いきなりコンピュータ時代がきたからいたしかたないとは思いますが、今の経営者は余りにひどいです。コンピュータのことを何にも知らない。それが、何にも知りませんと自慢の様に言うんです。今、コンピュータを知らなくて経営者が務まるかといいたいですね。
印刷機を買うときは細かいことまで検討するのに。コンピュータを買うときはメーカーの言いなりなんです、何にも勉強せずに。これでは、経営者としては失格です。
次に、デジタル化の印刷以外の面への展開を考えていきましょう。今、マルチメディア時代でインターネットは凄いブームです。私は十年間パソコン通信をやってますから、大概のことには驚かないのですが、インターネットのWWWを見た時には、これは凄いと思いました。何が凄いかと言いますと、まず一番最初に、全世界のコンピュータが繋がっていること。つまり、家から、居ながらにしてアメリカの大学のコンピュータに入って、そのデータを拾ってくるとかNASAのコンピュータの中に入って細部の情報を得てくるとかができる。口でいってしまうと、なにげないことのようですが、この意味はすごいです。なんか夢物語があっというまに実現したようで、やってみると感動します。
実際この前うちでタイ文字の仕事があったんですが、タイ文字なんて普通ないですよ。タイ文字のフォントをどうしよか、昔だったら活字屋さんに買いに行こう、ちょっと前だったらフォント屋さんにフォントのフロッピーを買いに行く。今だったらどうなるか、インターネットを探してみるんです。タイ文字と言うのを、検索します。あるんです。そこにアクセス、タイまでアクセスします。そこにタイ文字のフォントがタダで公開されているから、ダウンロードしてくる。それでもう仕事に使える。以上です。フォントだけでなく、著作権オープンになっている変換ソフトなんかもインターネットでいくらでも公開されています。インターネットからダウンロードしてそのまま使える。だから欲しいものがすぐに何でも手に入るという夢のようなメディアです。
しかも、とってくるだけでなく、言いたいことが何でも言える。私、個人ホームページ持ってます。自分の赤ちゃんの写真公開してるんですが、親ばかホームページと呼ばれています。親ばかホームページ同志のリンクとか言うのがありまして、今、流行ってんです。お宅の赤ちゃん可愛いねとか言って、家の子ども歩き始めました。家の子、二才半で毎晩、マウスを使ってコンピュータをいじれますとか、そう言う遊びをやるんです。
個人の表現が、大いに広がった感じです。何をやってもいいんです。俳句のホームページでは自分の俳句をインターネットで公開しています。結構、自分の小説とか、自分の詩とかもあります。自分の歯が浮くような詩ばかリ並んだホームページなんてちょっと不気味ですけれどね。なんにしても人間の表現の幅を広げました。あるいは、一つの新しい文化になってきています。情報の完全な民主化なんです。
昔、自費出版と言うのはすごくお金がかかりました。普通の人にはとても出来ないです。だからこそ、DTPムーブメントなどもできてきているわけです。ところが、ホームページだとプロバイダーに接続するだけですから、ホンとに僅かな初期投資すれば出来てしまう。その上で自分の表現を公開する。しかもそれは、日本だけでなく、全世界に流せます。
このインターネットムーブメントを今一番、怖がっているのはカタログ販売業界を相手にしている印刷屋でしょうね。今、通信販売のカタログというのは、印刷業界にとってはありがたいものです。フルカラーの八百ページを百万部とか二百万部とか刷るんです。それをスーパーの片隅に並べてタダで配ってますが、印刷屋はただではやりません。単価は安いでしょうが、絶対額がもの凄い。
ところがですね。インターネットで商品情報を流して、インターネットの上で欲しいなと思ったら、マウスでクリックする。そうすると、自動的に送られてくる、こういうシステムを現在、電機屋さんが一所懸命考えてます。これには印刷業界戦々恐々です、もしこれをやられたら、現在の印刷業界の一番の稼ぎ頭、カタログと言うのがばったりとなくなる。
その前に、何とかインターネットをこちらの陣営に取り込んで置こうとして今、印刷業界あげてインターネットに取り組んでいます。でないと商印関係は、全くゼロになる可能性もなきにしもあらずなんですから。
もちろん、ゼロになる事はないと思います。実際問題、全国津々浦々の田舎のおばあさんまでが、インターネットでショッピングする時代が、十年二十年で来るとはとても思えないですよ。この前朝日パソコン読んでいたら、面白い統計があって、全世界で電話を見たことがないと言う人が全世界で人口の半分は居るというんです。全世界で電話をかけたことがないと言う人は人口の三分の二は居ると言うんです。そんなもんでしょう。日本でインターネットを使って、田舎のおばさんまでが、インターネットでホームショッピングを楽しむと言う時代が来るまで、五十年位かかるんじゃないかと思います。
しかし、近々かなりの分野は食われてくる事は、まず間違いがないと思います。なぜ、印刷屋がインターネットに関っているかと言いますと、確実に印刷の領域が侵食される可能性があるからですが、もう一つは、デジタルデータですから、インターネットに加工することが割合簡単にできるんです。今、ホームページ変換ソフトが出てきていますし、ワープロで書いて置けば、自動的に変換するのが出て来ています。インターネットは是非、社長にいって導入してもらったほうがいいと思います。ほんとに便利です。
多分、インターネットのオペレーターには電算写植やDTPオペレーターの方ならかなり簡単に転身できると思います。だから雇用問題はそんなに心配することではないと思います。ただ、経営者の力量と言うのがあるんです。よっぽど経営者のデジタル化の時代をどう言うふうに生き抜くのかと言う考え方がしっかりとしていないと、ずっこける可能性は高いです。
現在はマルチメディアがちょうど中途半端な段階だと思いますね。恐らくこれから新たな才能が出てくるでしょう。マルチメディア文明の才能、インターネットのコンテンツを創る才能、そう言うものを持った人がこれから多分出てくるでしょう。そう言う人達が、全く新しい文明を創っていく可能性があります。
さて、デジタル時代の印刷業という、イメージはわかっていただけたでしょうか。どちらにしても、これから印刷業界再編の第二幕がきっておとされることは間違い有りません。この前、印刷技術協会の人の話を聴いていたら、三割の会社は潰れると平気で言ってます。また、別の評論家先生は五割の会社が潰れる、一番ひどいのになると九割が潰れるとか言っています。潰れると言うのは、雇用が無くなると言う事です。そんな恐ろしいこと簡単に言われては困るんで、みんな未来に残って行かなければいけないのです。しかし、変革はさけようがない。
その時ハードにあたってばらばらに分解するものを作っていくのか、それともやんわりと、段々変革しながら次の時代に降りていくか、その違いは絶対あります。やはりばらばらに分解してぶっ潰してしまうのでは、歴史も何もかもと切れてしまいます。今までもっていたその会社の印刷の技術も希望も何もかも失ってしまいますから、それはやりたくない。社会的にも無駄です。だから、全ての会社がうまく新しい時代にソフトランディングして行くという方向性はやっぱり探っていかないと駄目だと思います。
それにはそういう時代に直面しているのだということを、経営も分からなければいけないし、労働者も当然分からなければいけない。それに向かって、ハード・ランディングはしない。いかにうまく、転身を計っていくが重要だと思います。
何度も言いますが、なるべく雇用を確保しながらソフトランディングしないとクラッシュ、つまり−ついていけない企業は倒産しついていける企業だけが太ってしまう−これは経営者にとっては残った人は良いし、倒産した人はそれはもう不幸だったと言う話ですけど、労働者にとって見ればひどい話です。そんな事は、ヤッパリ許してはいけないんです。うまくソフトランディングする様に、労使共々考えていかないとほんとに目茶苦茶になってしまう。経営者が会社の三割が消えるとか、五割は消えるとか、九割は消えるとか、平気で言っていますけれど、それは自分の所は残り一の割だと思って言ってるんです。このまま価格競争を目茶苦茶やって、技術革新がどんどん進んでいったら、明らかにハードランディングです。
このまま進めばフルデジタル化について行ける企業は残るけれど、ついて来れない企業は全部倒産と言うシナリオしか書けないです。これは不幸です。これは容認できない事態です。そこは、経営者も労働者も柔軟に考えて欲しいと思います、時代は変わっているんだなと。技術革新に反対した運動が成功した例はないんで、そこはちょっと考えて欲しいと思います。
で、最後になりますが、十九世紀イギリスは本を残したというお話をしておきたいと思います。
十九世紀のイギリスは悪いことを沢山しました。但し、いい本を沢山残しているんです。うちの親父が大事にした本に、リンギッシュ・サーベイ・オブ・インディアという本があります。インドの文字状況、言語状況を調べた本です。全五十巻ぐらい、百二十〜百三十年位前の本です。当時のインドのですよ。植民地ですから。必然性があったんでしょうけど、そこの言語を綿密に調べ上げたたものをもの凄いいい装幀で、革装です、勿論。中の組み版ときたら、これがもう、驚くほど水準が高い、現在の我々の電算写植では、とても太刀打ちできない。しかもインドの言語ですから、特殊な活字が山ほど使われている。
そんなものが、今から百二十年も前に作られ、現在でもインドの言語を研究する人達は必ず買うんです。それ位、重要な本を作っている。当時のイギリスは、逆に言うと、それを作る余裕があった。これだけではないんです。沢山いい本が出ています。イギリスの図書館に行ったらびっくりする位の立派な本が、沢山出ています。十九世紀のイギリスは、繁栄の時に、本を残して衰退しました。
我々日本は今衰退の時代に入っていると言われます。何を残したか。ゼネコンによって、地方に使いもしないオペラホールを作って終わるんです。ほんとに情けなくなってくる。
日本で今本を出そうとすると、文部省が金を出さない。こう言うんだそうです「先生方は、売れる本は出版社を通じて出版されるでしょう。売れない本を国のお金で出そうとされるんですか甘いですねえ」。情けなくなりますね。これはもう、完全に学問の否定、文化の否定ですね、それ位日本の文化って底が浅いんです。
たとえマルチメディアになっても、インターネットになっても、残るのは本なんです。インターネットと言うものを私は、一昨年からやっています。ところが一昨年のホームページに私が何を書いたかと言うのを、実は気が付くと何も残っていないんです。一番最初の頃に私が一体何をホームページの上に残したか、そういえば残っていない。
インターネットの草創期に一体どんな番組があって、どんなコンテンツがあったのかと言う歴史を誰も記録していない。こう言う恐ろしい時代です。だから、今から五十年位経って、日本のインターネットの歴史を研究をする様になって、どうするでしょうね。なにも残っていない。二年前でも残っていないんです。二年前にどんな番組があったのかという痕跡すらないんです。
本なら残ります。本は千年経っても残る二千年経っても残ることが、既に実証されています。今から五百年前の本でも、高いけど骨董品ですけど、今言った百年前二百年前の本でも堂々と読まれてます。十九世紀にイギリスが本を残したように、我々は日本が豊かな間にいいものを残していくべきではないのか。それを、大いに言っていきたいし、我々印刷人というものは、それを誇り持ち、我々が作ったものは、印刷物は、百年後、二百年後、そして、一千年後、二千年後にも意味を持っているんだということを肝に銘じていたい。
今から百二十年前イギリスで組み版をした職人さんは百二十年経ってその本が使われ続けるとは誰も思っていなかったと思うんです。皆さんが今ここで本を作った、本というのは単に消費されるだけのものもあるでしょうけど、やっぱり百年・二百年残って千年後にも残る。二十世紀の末にインターネットと言う文化が起こったという事を記述しているのは本だけです。我々は誇りをもって次の時代に進んでいかなければならない。
私、最後の最後にもう一度言っておきたいのですが、コンピュータやデジタル化は人間を不幸にするものではありません。本来、時短をすすめ、豊かな暮らしを約束するもののはずです。それがなぜ、このような単価下落というような不幸な事態を招いてしまったのか。それは使い方ですね。経営者がデジタル化ということの思想的な意味をわかっていないと思うんですよ。コンピュータは本来人間を幸せにできるはずなんです。私達が一番最初に活版を捨てコンピュータを工程の中心にすえたとき、その理想をもって始めたんです。でも余りに使われ方が悪すぎる、これはもう、もの凄く悲しいことです。だから、これからは、人間を幸せにするための「コンピュータの使い方」について、労使ともども考えていくことをあらたに提唱して、この話を終わりたいと思います。長い時間、ご静聴ありがとうございました。

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