『印刷・出版−デジタル技術革新の今を見据える』1998.5.31





中西でございます。皆様、日曜日にもかかわらずたくさん来ていただきましてありがとうございます。「印刷・出版デジタル技術革新の今を見据える」ということで、お話しさせていただくわけですけれども、まず歴史的経緯をお話しして、その問題点ということをやって、最後に近未来、10年、20年のタイムスパンで出版には何が起こってくるのかについて話していきたいと思います。



活版からマルチメディアへ激動の10年



10年前、活版は現役だった。そして今も。

10年前はですね、活版がまだ現役でした。今でもやっている所がないことはないんですけど、現在では活版というのは、特に出版関係では壊滅しているんじゃないですかね。東京では一部、活版をやっている所もあるというんですけど、ほぼなくなりました。ところが、10年前、1988年頃ですと、十分に現役でした。私は印刷業界に入ったのは古くないんで、13年前です。皆様も出版関係、編集や校正に携わっておられる方が多いと思いますので、この写真は懐かしい雰囲気でご覧になると思います。昭和40年頃の中西印刷での植字風景です。当時うちの会社で30人くらいの方がこんな感じで、夏にはランニングに腹巻き姿で、ステッキを持って活字を拾って組み上げていく。1990年が節目で、80年代はまだこの状態だったんです。

私は東京でサラリーマンをやっていたんですが、1985年に実家に戻りました。で、戻ったら実はこれだったんですね。東京では私、コンピュータを触って、マーケティング・リサーチという、派手な商売をやっていましたから、実家へ帰ったら活版印刷をやってたんでね、非常に驚いたんです。正直申し上げて、果たして20世紀も末に至って、こんなことをやっていていいんだろうかと、はっきり思いましたね。親父はそうは思ってなかったんでしょうけど。活版は活版で非常に洗練はされていたんですよ。職人さんの多くは中卒で、学問を積んだ人じゃないんですけど、組版原則とか、組版規則というようなものを、実によく知っておられた。いや、知っておられたんじゃないんですね、体が覚えているというふうな状況だったんじゃないかと思います。禁則処理なんていうのはコンピュータなんかでは意識してよくやります。こういう方々も禁則処理を当然知っていました。しかし彼らは、禁則処理を頭で理解していたんじゃなくて、体で理解していた。こんなところにこんな字が来るのはおかしいんじゃないかという感覚そのもので、指先の感覚で覚えていたんじゃないかと思います。いわば日本の組版規則とか、組版原則は活字職人さんの指先に運動神経として蓄えられていたんじゃないかということですね。

それが10年前。私が親父に言ったのはこれじゃもう終わりだ、と。こんなことを20世紀の末にやっていたんじゃ工業として成り立たない。是非ともコンピュータ化することで乗り切らなきゃならない。コンピュータ化には前段がありまして、モノタイプという機械はご存じでしょうか。これは活字を自動的に拾う機械というか、鋳造する機械なんです。活字を拾う代わりに紙テープに鑽孔しておくと自動的に活字を鋳造していく機械です。これが活版の末期に、そのころには写植、電算写植が出てた時代なんですが、非常にもてはやされました。こういった機械で活字そのものを近代化していこうとしていたわけです。私が印刷の近代化ということを言ったときに、親父はまず、これを近代化できないかと。活字の近代化、現代化ということから印刷の激動の10年は始まったわけです。

まず何をやったかと言いますと、「電算活版」という機械を作りました。どういうものかといいますと、ワープロで入力してそれを活字用の紙テープに置き換えまして、それで、活版の版を得るという、コンピュータと活版の、今の流行の言葉で言えばハイブリッドですね。これに2年くらい取り組みまして、これで活版の近代化が成し遂げられないかと思ったんですけれども、これはやはりだめでした。といいますのは活字というのは物理的な媒体ですから、自動的に並べるといっても限界があるんですね。字が大きかったりちっちゃかったりしますと、当然並べられない。モノタイプでもできたのは同じ活字の大きさ、五号なら五号ばかり、9ポなら9ポばかりということはできるんですけども、タイトルを大きくしたり書体を変えたりということは当時の機械ではほぼ不可能でした。しかし、それをもしもやろうとしたらできたと思うんですよ。活字の、鋳造の技術の粋を尽くして、さまざまなモノタイプの機械をを並べて開発する、今だったらロボットアームとかありますからできないことはないでしょう。しかしそれはやらなかった。なぜやらなかったというと、その頃にはすでに電算写植というものができていたからなんです。



電算写植の登場。文字組機から、フルページ出力へ。

1986年、活版はもうだめなんじゃないかなと思いまして、親父に今評判になっている電算写植機というのを買ってみないかと持ちかけましてね。電算写植を導入しました。このときにはもちろん活版をやめようとしたわけじゃなく、活版は未来永劫続くであろうと、親父は当然そう思ってましたし、私もたぶんそういう形になるんじゃないかと思ってました。10年前には活版は21世紀まで残ると思ってたというのは真実です。電算写植という機械は入りましたけど、この機械は当時はまだ非常に能力が低かった。そのうえにめちゃくちゃに高かったんです。どれぐらい高かったかというと、ここにちらっと見えてます、このテレビの化け物のような機械、これは漢字を出力するためだけに存在した機械なんですが、漢字が当時の画面じゃ出なかったんですね。当時、電算写植の主なものではプリントアウトで漢字は出ましたけれども、画面の上では出力できなかった。それぐらいの時代でしたよ、まだ。高精細できれいに印字したものとか、WYSIWYGなんて当然できませんでね。このでかいコンピュータというか、このでかいテレビ一台が当時、700万円くらいしたんですね。本体のプリンタといえばですね、何千万という単位だったですね。今見たらパソコンより劣ってますよ。今のパソコンより性能低いですよ、話にならないぐらい低いです。メインメモリが4メガとか8メガとか、そんなもので、ハードディスクが40メガバイトしかない、ギガじゃないですよ、40メガですよ。それぐらいの機械が値段でいったら500万円とか600万円とかするんですよ。非常にきれいな印字が得られるというただそれだけの代物、と言っていいと思います。電算写植というのはそこから始まったんです。

ただ、電算写植のメリットというのは、やはり組版ができるということなんですね。それまでは活版でも、手動写植でもそうでしたけれども、大きな文字と小さな文字を混ぜるとかですね、書体を変えるというようなことは一つの機械ではできなかったんです。ちょっと前までは、タイトルはタイトルばかりを集めてください、本文は本文ばかりを集めてくださいという指示を印刷会社のほうからされたと思うんです。それはですね、当時はタイトルはタイトルばかりを集めて手動写植で打つ、大きな字は大きな字ばかりで、小さな字は小さな字ばかりで打たなければいけない、それを最後に手で切り貼りして合わせるんです。電算写植になって何が変わったかというと、大きな字小さな字、明朝、ゴシック、それらを全部混ぜて、ちゃんと出せるようになったんですね。これは非常な技術革新です。手動写植でもやってやれないことはなかったんですが、やはり最後に1ページというものをまとめて完全に出力することはそれまでまずできませんでした。活版でも当然できない。つまり、1ページを構成するものをコンピュータの中や、一つの機械の中で完結することはそれまではできなかった。ところが電算写植を導入することによって、一つのページの中にありとあらゆるもの、ページを構成する要素ですね、本文、タイトル、柱、丁数、そのようなものがすべて一つの機械で構成できるようになった。それが電算写植というものの功績ですね。ただし、それをやるにしては値段がめちゃくちゃ高かったんです。

値段がめちゃくちゃ高いというところにまず問題があったんですが、もう一つは人材の問題ですね。印刷会社の方では、電算写植の時に人が入れ代わる、がらっと変わってしまいます。それまで活版をやってた人が電算写植をやった例というのは非常に少ない。うちではやったんですけど、それは親父さんがですね、若造に組版ができるはずがないとつっぱりまして、この辺のことは『活字が消えた日』という本に書いたんですけど、組版というのは若いときに活字を投げつけられて、子供あつかいされて、10年もしてやっと組版ができるようになるんだと。学校出たてのちょっとコンピュータが使えるぐらいのやつに組版ができるわけがないと。だから組版の職人にコンピュータを使わせたいと、うちの親父は言ったんですよね。ほとんどの会社ではこれができなかった。おじさんにコンピュータが扱えるわけがないという猛烈な偏見がありましてね、やらせなかったんです。おじさんの方も私はコンピュータが扱えるわけがないと思い込んでおりまして、やりませんでした。で、どうなったかというと、コンピュータは扱えるが組版技術がわからないという人と、組版はわかるがコンピュータが扱えないという人と二極分化を起こしてしまいます。これがあとあと非常に問題になってくるんです。

電算写植はその後、フルページ出力へとどんどん進んでいきます。といっても当時はまだ文字だけでした。ところがページを構成する要素の中には文字だけじゃないですね、写真も絵もあります。絵も写真もコンピュータで扱ってしまおうという方向性にどんどん向いていくんですね。それがフルページ出力への挑戦ということで、現在でもそれが続けられております。ほとんどの印刷会社でフルページというのは実はほとんどできていません。写真は製版で手作業で貼ってるとかいう場合がほとんどです。ですから非常に危ないことですが、いまだに校正の時とできあがってみると図が入れ替わってたとか、写真が裏焼きになっていたという事故があとを絶ちません。フルページにすればそういうことはなくなるんですけれども、とにかくコンピュータで全部扱うというところにはまだいってないんですね。



DTPの衝撃。

さて電算写植というのは非常に高い機械で、ものすごいプロ用の機械で、扱い方も非常に難しいということはご理解いただけたと思います。そういうところへ1990年頃から急にDTPってものが登場してくるんですね。DTPの衝撃。何が衝撃か。安いんですよ、これ。びっくりしますよ、いや、びっくりしました。今ではもう常識ですけどね。電算写植機が端末一台、600万から700万する時代にですね、コンピュータ一台20万でできるっていうんですよ。また電算写植のソフトが1セット何百万、300万、400万してる世界のときにですね、QuarkXPress今いくらですか、20万くらいですね。こんどQuarkXPressのヴァージョンアップが10万円するって、ものすごくみんな怒ってますね。でも、電算写植だったら本体300万、ヴァージョンアップが60万、70万平気で取りますから、めちゃくちゃ安いんです。安いうえに、これ、フルページ構成・出力が最初から前提なんですね。今まで印刷業界が苦労して苦労して苦労してやってきたことより、機能が多くて、なおかつ便利なものを、さらにめちゃくちゃ安く売っている。

これを何が可能にしたかというと、まず一つはコンピュータの値下がりですね。これ今ひどいですね。さっき40メガとか言ってたのが今、4ギガぐらいになってますから。コンピュータの値段って同じ性能のものが一年で半分ぐらいになりますから。二年で四分の一です、三年で八分の一、四年で十六分の一。そんなもんですよ。とすると、三、四年たっちゃうと性能のレベルの桁が違うんですよ、コンピュータってのは。ですから電算写植がうろちょろしてる間に、DTPのほうが性能がよくなってしまうんです。それともう一つ、売れる数が違うんですよ。電算写植は売れても100本とか200本ですけど、DTPのようなエンドユーザー向けのソフトは何千本、何万本って売れますから、一つ当たりの単価がめちゃくちゃに下げられる。コンピュータのソフトは、製作コストがほとんどかからないんですね。フロッピーとかCD-ROM一枚、CD-ROMなんて一枚200円か300円でできてしまう。結局、価格というのは開発費をいくつに割るかだけなんですね。たくさん売れば売るほど圧倒的に安くなってしまう。

コンピュータも圧倒的に安い、ソフトも圧倒的に安い。それともう一つはレーザープリンタですね。それまでの電算写植の業界っていうのは、印画紙の出力にこだわりすぎてるんですね。手動写植の時代からそうなんですけど。印画紙に出なきゃ印刷には使えないってみんな思い込んでいたんです。レーザープリンタが出現したときに、これでもいいのではと思った人もいたでしょうが、ふみきれなかった。これはなかなか異論のあるところです。レーザープリンタの出力で出版に堪えうるか、ということですね。けれども結構使いものになるんです、今。600dpiぐらいのレーザープリンタで十分使えるんです。『印刷はどこへ行くのか』という私の本ですけど、これ、レーザープリンタでやってます。そのことについて「品質が悪い」という話がどこからも出たことがない。これ、わざとそうしたんですが、印画紙使ってません。プロが見たら判りますけど、普通の人は言わない限り気づかないです。普通の本文書体、9ポ以上ぐらいになるとまあ、区別つかないですよ。小さい字は切れたりつぶれたりしていますがね。まあ普通はつかわないですから。

そうなってくると、安いし早いし、電算写植はDTPにはもうとても太刀打ちできないはずなんです。でも、印刷業界は長くDTPってのを馬鹿にしてましたね。おもちゃだと思っていた。それはなぜかって言うと安いからなんですね。それとコンピュータに慣れていないから使えなかったということもあると思います。印刷業界はコンピュータを使う業界ではなかった。電算写植にしても、メーカーの人が手取り足取り教えてくれて、やっと使えていた。ところが、DTPは自分でコンピュータ買って、自分でソフト買って動かさなきゃなんないでしょ。そんなこと、なかなか印刷屋さんできないんですよね。それでなかなか普及しなかった。これは使いものにならないと言い張ったんですね。そんなものはプロのものじゃないと思い込んで、みんな乗り遅れちゃいました。その間に編集さんとか出版社さんがどんどんDTP化していきます。あっと気がついたときは印刷屋さん、仕事がなくなってましたね。編集工房、出版社がDTPでやってくるんで、昔ながらの印刷組合でやってたところの仕事がどんどん減ってます。なくなってきてるんです。

なんでこんなに立ち後れちゃったか、やっぱり驕りでしょうね。印刷業界は我々の技術が最高だって思い込んでましたから、DTPが出てきたときには、そんなもんでできるはずがないと逆に思ってしまった。ところが、できるんですね。もちろん、あとでも言いますけど、できると言うことと商品になるってことは違うんで、非常に組版品質の低下を招いてしまったということはあります。これ、聚珍社さんなんか好きそうな話だと思うんですけど。



無版印刷、そして紙のない印刷へ。

そして、今もう一つの動きとして無版印刷というのが出てきてます。オンデマンド印刷と言われたりもしますけども。版を使わない印刷。なんのこっちゃと思うでしょ。これ、何かと言いますと、コンピュータの出力をそのまま最終製品にしてしまうということです。

今、パソコンでもワープロでも最後にはプリントアウトしますよね。そのときに何枚刷りますかというオプションは必ずついてくると思うんですよ。大抵一枚しか刷りません、デフォルトでは。それを例えば10枚刷ったら、コピーする手間が省けるぐらいですが、1000枚刷れば、これは印刷そのものになってしまいませんか。無版印刷、オンデマンド印刷というのは基本的にはそういう概念です。コンピュータのプリントアウトをそのまま印刷として使ってしまうという技法です。もちろんそれ専用の機械で、です。今、レーザープリンタで同じものを100枚刷ったら、これは非効率です。しかしそういう専用の機械も出てきていますし、カラーで印刷できる機械も出ています。

これは現在ホットなトピックでして、無版印刷とかオンデマンド印刷というのはおそらく21世紀には主流になってくると思われます。というのは印刷というのはハンコつくるのに非常にお金がかかるんですね。ハンコ作るまでが高くて、いざ印刷となるとむちゃくちゃ速いんですよ。例えば『少年ジャンプ』なんてのは最盛期には600万部刷ったと言いますけど、600万部刷るためにはどれだけ印刷機を速く回さなくてはいけないか。一時間に10万部ぐらい刷らなきゃならないですね。一時間に10万部っていうと一秒に30枚通るんですよ。一秒に30枚といいますと、例えば300部しか刷らない本、売れゆきの悪い本を『少年ジャンプ』を刷るような超高速印刷機で刷ったとしたら……10秒ですよ。高速で刷る技術がめちゃくちゃ進歩してしまって、そのために版を作る技術も進歩してしまった。どうなったかというと、部数の少ないものはめちゃくちゃに割高になってしまったんですね、現在の印刷技法では。これは心当たりがあると思うんですけど、人件費がかかるところ、つまり組版とか製版とかいう部分に金がかかりますから、それを部数の単価で割りますので、部数の少ないものはめちゃくちゃに高くなってしまうという現象が起こってますね。それぐらい今の印刷というのは速度が速くなってしまっています。そのときになぜオンデマンド印刷かといいますと、これ製版がいりませんし、組版まですればあとは印刷まで直結してますから、例えば10部の印刷だって簡単にできてしまいます。コンピュータの上で10部と設定すればいいわけですから。100部でもいいですね、300部でもいいです。今、印刷業界はこの辺の損益分岐点について研究してます。500部ぐらいじゃないか、500部ぐらいまでは、オンデマンド印刷の方が安くなる可能性が非常に高い。

今日は持ってきませんでしたけど、この『印刷はどこへ行くのか』という本はいろいろ実験してまして、この本をオンデマンド印刷で刷ったヴァージョンも存在します。が、実はあんまり見せたくない。品質がまだ悪いんですよ。レーザープリンタで出力したままですから、文字はなんとかきれいなんですよ。写真が出ないんです。写真、図関係はオンデマンドでは出ないと思った方がいいですね。機械によっては、いい機械も出てますけど。まだオンデマンド印刷ではそこまではいってません。

そして、恐るべき話ですが、紙のない印刷という時代がもう来てしまいましたね。紙のない印刷、何のことかと言って一つはCD-ROMですね。今一つはインターネットです。CD-ROMに関しましては、これ、非常に話題になりましたんで、ご存じかと思いますけど、この『新潮文庫の100冊』ですね。これが時代を画しました。これが当たったんですね。新潮社自身もこれが当たるとは思わなかったそうですね。一万くらい出た。一万というと出版業界ではいうのも恥ずかしい数かも知れませんけど、CD-ROMで一万出たっていうのは大変なことなんですね。ここに新潮文庫100冊のフルテキストが入ってます。これで読めます。でも、ほとんどの人が、こんなもので供給しても読めるはずがないと思ってたんです。画面の上で文字を長時間読み続けられるはずがないという偏見をみな持ってたんですが、それにあえて挑戦したんですね。新潮社の編集の若い人がやったんですけど、とにかくコンピュータの上で本が読み続けられることを実証するためにありとあらゆる研究をやるんですね。おもしろいですよ、これ。クリックすると、本をめくるパラって音がするんです。しかもですね、画面はクリームに黒なんです。クリームキンマリのような書籍用紙をわざと真似てるんです。その方が読みやすいから。それでこれが売れて、これを真似するようなものも出てきてます。こういうように紙のない印刷というのが一つ市場になってきてます。

もう一つはインターネットですね。これもとにかく、めちゃくちゃな勢いで今伸びてますね。三年前にはなかったものなんですよ、インターネットって。いや、なかったことはないんです。もちろんありましたよ、アメリカのね、核防衛システムとか、学術ネットとか、ありましたけど、インターネットという言葉を普通の人が知るようになったのは三年前です。1995年です。それがこの三年間でもうまったく、インターネットがなけりゃ世の中が明けないんじゃないかというくらい、朝から晩までインターネット、インターネットになってしまった。ちょっとかげってきたといいますけど、みなさん、今企業の雑誌広告を見るとみんなインターネットのホームページのアドレス書いてますね。テレビの広告でもインターネットのホームページはここと、詳しいことはこっちをご覧くださいというようなことをすごくやりだしている。

紙のない印刷ということで、インターネットがものすごい勢いで発達してる。CD-ROMとインターネットは要注意です。



電算写植の終焉。

専用機としての電算写植はもうほとんど終焉です。終わってます。今、うちでは電算写植やってますけど、あれだけもてはやされて、革命と言われた電算写植がもう使われなくなってきている。みんなマッキントッシュになっちゃって。いやまたマッキントッシュがずっこけかけてますから、今、実はウィンドウズに変わりかけてます。どちらにしても、もはや組版専用の機械は使われなくなって、パソコンとDTPで本を作るのが当たり前になってきている。専用の電算写植システムは売れなくなっている。もうほとんど売れません。



すべてがコンピュータに収斂する。

今までの話でおわかりになったと思いますが、何もかもコンピュータで扱うということが、御時世なんですね。今まででしたら、写真だけはコンピュータでスキャニングするとか、文字をコンピュータで作らず、最後のマルチメディアの部分だけコンピュータを使う、そういうばらばらの個別の流れだったんです。ところが、これがフルページということになってくると、ありとあらゆるものがコンピュータへコンピュータへと収斂する。コンピュータを扱えなければ何にもできないという時代になってしまいました。

私、この四月に、ある芸術系の大学の印刷科というところに呼ばれまして、特別講義をしてきました。そのときそこの先生が言われたんですが、これからの印刷科では、まずコンピュータを扱ってもらわないとどうにもならない。コンピュータを使えない人は印刷屋ではいらない、そういうふうになっちゃったというんですよ。ですからまずコンピュータを扱ってほしいと生徒さんに言うんだけれども、芸術系の大学へ行く子というのは、そういうことがあんまり得意じゃない子が多いんで、最初とまどうらしいです。でも絵をコンピュータで描けない、そういう子たちにはもう、やらせることがないんだとおっしゃいました。印刷会社から求人が来るのはコンピュータが扱えるのが条件になっています。例えばデザインができます、コンピュータも使えますといえば、コンピュータでデザインをすればいい。デザインはできます、コンピュータは使えない、となると誰かコンピュータのできる人に教えて貰わなくちゃならない。そうなると、もうコンピュータとデザイン両方をできる人でないといらないということになってくる。だからもう印刷学科でもコンピュータを使える人でないとやっていけない、学生の意味がないと、そう入学式早々言ったそうです。絶望した学生がたくさんいたそうですが、今の学生さんはすぐに慣れて、六月くらいになると百パーセント使えるようになってるらしいです。そういうわけで、今コンピュータを使わないと印刷会社では何もできない。電磁波が出るとかいろいろ問題がありましてね。うちの会社では労働組合と、女性労働者には妊娠中はコンピュータを扱わせないという協約を五、六年前に結んだんです。そしてその結果非常に困ったことになってる。今、コンピュータを扱わない仕事がないんですよ。絵もコンピュータでやる、文字入力ももちろんコンピュータでやる。すべてがコンピュータに収斂する。印刷屋のすべての仕事はコンピュータがないとできないということになってしまってるんです。唯一残ってたのが営業だったんですけど、営業も今、コンピュータ使わないと進行管理、工程管理もできません。というのは、最近営業はもうほとんど電子メールなんですね。出版社の方とかあちこち飛び回ってますから連絡つかないですね。だから営業の人は電子メールを使えないと仕事にならない。いわば印刷会社は上から下までコンピュータを使わないとまったくたちいかなくなってます。これはもう、すべての印刷会社がそうだとは言いませんが、確実にその方向に向かっているということは言えると思います。



デジタル時代の印刷と出版の諸問題



DTPの本質は草の根民主主義、日本では安価な写植代替機。

で、今、そういう状況になってるというところから出発するわけですね。

まずDTPなんですけど、印刷屋が遅ればせながらDTPを使ったのはいい、編集者が使いだしたのはいい、いいんですけど、これが今現在、使われ方が非常に悪いですね。なんで悪いのかというと、写植代替機に使ってるんですね。つまり、さっきも言いましたけど、非常に安いということだけが突出しているんですよ。DTPの本質が見失われている。DTPの本質というのは何かといいますと、これはヒッピームーブメントの最後の残滓なんですね。意外に思われるかもしれませんが、DTPをつくった連中にしても、それからスティーブ・ジョブズというマックの、アップルの創始者にしても、ヒッピーなんですね。スティーブ・ジョブズはインドを放浪して下痢をして生死の境を彷徨ったという有名な話がありますが、とにかくそういう文化に憧れを持った人たちです。

そういう人たちがなぜDTPをつくったか。つまり、それまで電算写植にしても活版にしても、オフセット輪転機にしても、非常に大きな機械と大きな資本がないと印刷というのはできなかったんですよ。だから、特権階級のものでしかなかった。自分たちが言いたいことを発表しようとしても印刷は金持ちのものでしかないという認識があったわけですね。我々の手に出版を取り戻そう、印刷を取り戻そう、そのためには、安い機械で、簡単にできなきゃいけなかったんです。安いということで、パーソナル・コンピュータに飛びつきます。そして簡単にということでWYSIWYGという概念が出てきます。目の前で、画面を見て、画面の上で触れるというやつですね。みなさん、DTPをお使いの方はこれが当たり前だと思われるでしょうが、当たり前じゃなかったんですね。電算写植の時代までは。DTPだと文字を右へ、ちょっと上へといった場合、マウスでクリックして、ドラッグしますね。ところが電算写植の時代までは、文字をちょっと上げるというと、ちょっと、(例えば1ミリ)上げるというプログラムを書かなきゃいけなかったんですね。WYSIWYGということで、職人芸というものがいらなくなった。職人さんが一生懸命身につけたようなものは、コンピュータがプログラムでカバーしてくれるということにしてしまった。それがDTPの本質だったんです、というか理想だったんですね。

ですからDTPというのは実はちょっと組版に甘いんですね。甘いというのは、初めっから厳しい組版などというものは意図してないんですよ。甘いからDTPなんですよ。ものすごく複雑怪奇な組版が組めるということはDTPの本来の意図じゃないんです。とにかくタイプライターよりましなものができればいいという発想があったのです。アメリカの場合、それでいい。ま、向こうはABC……26文字しかありませんからね。ジャスティフィケーションとかありますけど、そんなのはコンピュータはすぐやれる。そんなに複雑なものを作る必要はなかった。それでいいというところが本来のDTPなんですよ。DTPでは細かい組版ができないから駄目だというのは、DTPに対する過大評価といいますか、方向が間違っているんですよ。

ところがDTPは安いというのが、日本では圧倒的に焦点になっちゃったんですね。安ければ安いほどいいという話になってしまって、発注者の方も安けりゃしゃあないかなと思っちゃう。で、それを繰り返すから、どんどん、もうDTPは安かろう悪かろうの代名詞みたいになってしまって、関西弁でいえば「ウチはDTP、いやデーテーペーでやってますから、安いんですわぁ」という印刷屋が跋扈するんですね。その裏には、DTPの根本の発想というのは完全に忘れ去られてます。そうじゃないんです。素人でも、例えば編集者でも出版社でもDTPを使えば面倒な印刷屋との交渉もなくなる、訂正はこころいくまでできる。ただしある程度まで、というのがDTPの本質だったんです。そう、私は理解しています。それが安価な写植代替機として使われて、安かろう悪かろうの代名詞になった。ここにDTPの不幸があった。不幸な誤解の時代が続いてます。



切り貼りDTPと出版社のDTP化。

私は「切り貼りDTP」と言ってるんですけど、DTPで切り貼りしてませんか。フルページ出力をせずに文字なら文字だけ、タイトルならタイトルだけを出して、あとで手動写植の職人さんに貼ってもらったりしてませんか。DTPだから安いですよという印刷屋さん、出版社さん、たいがい切り貼りやってますよ。これはDTPをDTPとして使ってないですね。簡単にフルページがやれるというDTPの本質的な使い方をしないで、今のところ写植代替、安い写植機だと思って使ってる。印刷屋に組版させると一ページ何千円とつくから、自分の会社でやってしまった方が安く済むからDTPでやる。そういう発想です。それが組版能力の低下も招いてますし、印刷会社の士気も、やる気も削いでますね。

 印刷会社に赤字訂正を戻してもちゃんと直ってこない、それくらいだったら自分のところでやろうと、そういうのが本来、出版社のDTP化の動機であるべきなんですよね。DTPの本質、草の根民主主義ということから言えば、何でも自分でできるというのがメインなわけですから、そうするべきなんですが、安いということをメインで使ってしまうから、みんなやる気がなくなってしまうし、安けりゃいいのかという話になってしまう。ということで、DTP化することでどんどん不幸な事態に陥ってしまう。労働組合の人なんかと話をすると、DTP化することでどんどん労働条件が悪くなってしまう。印刷会社はまだ労働組合がしっかりしているから、なんとかなりますが、出版社系は労働強化につながっているという指摘がありますね。単に印刷屋の仕事を編集者におしつけただけだという。だからここは一つ原点に立ち帰ってですね、ほんとに細かい組版というのはやはり印刷会社にやって貰う、印刷会社に任せてほしいと、印刷会社の者としては言いたいですね。

この聚珍社のマニュアル(マツタケ行組版*注1この文書末に解説をいれてあります。)、これプログラムに組み込んであるんですか、人間がやるって言ったら、これはDTPじゃないですよ。これがプログラムになってて、全部コンピュータで計算してやってくれるなら、これDTPですけど。そうでないなら印刷屋にやって貰った方がいいですよ。この細かい、何ポイント落として、ちょこっと寄せてと、これは若いオペレーターのする仕事じゃない、熟練のオジサンのやることです。これは印刷屋さんの、プロがやる仕事です。ま、これがプログラムとして、例えばQuarkXPressに組み込めたら、また話は違いますが、しかし、これを組み込んだとしたらやはり取り扱いは難しくなってしまう。やはり細かい、詳しい組版はプロに任せていただいて、DTPはもっと簡単なものをやる。ここまで詳しい組版をやるのが編集者の仕事かと、いずれは怒り出す人だってでてくるでしょうしね。



フロッピー入稿の実際。

それともう一つはフロッピー入稿ですね。『フロッピー原稿の作り方』というのをお配りしてると思いますけど。これ、私が八年くらい前に書いて、最近まただいぶ変えてますが、これを書きたくなった動機というのは、編集者から来るフロッピーはひどいものが多すぎるんですよ。テキストファイルにしてくれという意味が全然分かってないとかですね、今はだいぶなくなりましたけどいちばん厄介なのは、文字を大きくしたり小さくしたりね、書体を変えたりというのが、全部ワープロの方できちっとやってあってね、そのフロッピー渡してこのとおり全部やってくれと、そういうのが結構ございましたね。そんなことは実際できないんでね。フロッピー入稿の場合はやはり印刷会社との共存関係というのを大切にしてやっていただきたいと思います。それからいちばん困るのがフロッピー入稿のあとの赤入れなんですね。フロッピーで入れときながら、校正で大量に直すというやつです。これがいちばん頭にくる。何のためにフロッピーで入れたんやと。それで直し料を取れたらいいんですけど、めったにとれない。フロッピーで入れたから組版料の内の入力料をただにしてますからね。かえって損になってしまう。やはりフロッピーというのは完全原稿で入ってそのままざぁーっと流れるから意味があるんであって、フロッピーで入れてから、おもむろに赤字を入れるというのはルール違反であると私は思います。



文化を揺るがす漢字コード問題。

漢字コードというのは異なるコンピュータ間で漢字をやりとりするための規格のことです。これがコンピュータネットワーク時代になっていろいろと問題をおこしている。漢字コード問題では有名な話が、JIS78とJIS83の変化というものです。これはもうご存じな方も多いと思いますが、ご存じでない方は覚えて帰ってください。1978年、JISに漢字コードができます。どの漢字とどのコードが対応するかという、対応表の規格を作ったわけです。JISというのは日本工業規格ですから、これを作ることで、どんな会社のコンピュータでも、どんな会社の電算写植機でも、DTPでも、同じ文字が出るということを保証されるわけです。どこの会社のボルトを使っても、どこの会社のナットを使ってもきちっとはまるというのと同じですね。どこの会社の機械を使っても、同じ漢字がやりとりできることを可能にする、これがJIS規格というものなんですが、これが78年と83年のJISでは変わるんですね。有名な例に森鴎外の鴎の旧字が出ないという話があります。第一水準と第二水準で文字を入れ替えるということもやりました。規格を作って五年で入れ替えちゃったんですね。これが出版社関係では非常に評判が悪いです。いまだにわざわざ古い方を使ってらっしゃる方も多いです。印刷屋では漢字を変えられて混乱したという、この恨みだけが残ってしまっているわけです。もう一つは、JIS漢字というのは六千字ぐらいしかない、補助漢字を入れても一万一千字くらい、で、漢字が足りないという問題が起こってきます。大漢和には五万字ある、だったらコンピュータでも五万字使えるようにしろという大合唱がおきる。コンピュータになってから使える漢字が少なくなったのでは困るということですね。昔の本の翻刻なんかやると、字が足りない。今は外字を作ったりして貼り込みで対応してますが、これはうまくいかない。規格にない字を一時しのぎで作っても、ほかの機械に持っていったときに表示できませんから。インターネットの時代になって非常に問題になってきたんですね。それまでは印刷屋だけの問題だったんですよ。フロッピー入稿して文字が化けた、なんでだという場合に問題になってたくらいでね。インターネットの時代になってくると、インターネットに繋いでいるコンピュータが違う漢字の規格でもって動いてたら文字が化けるんですよね。ですから全世界の全コンピュータで規格を統一しておかなくてはいけないという話になってきてるんですね。で、ユニコードという動きが出てくる。ユニコードももうJISの規格にされてます。しかし、このユニコードにも漢字が二万字くらいしか入ってない。ユニコードでも漢字を増やそうと、次の規格が出るらしいですけど。

永遠に問題なんでね、漢字とコンピュータってのは絶対に相容れないもんなんですよね。コンピュータで使うために漢字って作られたわけじゃないですから。表意文字って、非常にコンピュータで扱いにくいですね。表音文字ABC……ってまったく意味をはぎ取られた形だけです。だからこの形とこの形をコード化するって簡単なんですけど、漢字の場合非常にやりにくいですね、コード化が。だってどの漢字とどの漢字が同じで、どれとどれが違うかという基準すら曖昧です。私の名字は普通の字体と違ってここんとこがはねてるんだとか、よく頑張る方がいますけど、それを違う字と見なすのか単なるバリエーションと見なすのかで全然話が違うでしょ。完全にそれが違う漢字だと見なしていけば、五万字どころじゃ足りないですね、コードが10万とか20万とかいりますね。作れば作れるでしょうが、そんなに作っちゃうと今度は入力するのが大変になってきちゃいますね。また、名前の検索をかけたりするのも大変になってくる。例えば斉藤の齊を正字で入力してるとか、そうすると「斉藤」で検索できない。そういう問題もありますね。そういうことはもう、漢字そのものがコンピュータに乗りがたいとしか言いようがない。その辺は何とか折り合いをつけていただくしかないんです。漢字コード問題っていうのはここからあと完全に政治問題なんですよ。中国には中国の漢字コードがある、台湾、韓国、それにユニコード。日本でも漢字制限論者と漢字拡大論者ではもう、必ず喧嘩になる。だいたい正解なんかないんですよ。ここでは漢字コードの問題があるということだけ覚えてください。私は、どれがいいとか主張はしませんから。



コンピュータに慣れる。道具と割り切るか、惚れ込むか。

何度も言いましたようにすべてはコンピュータに収斂するんですよ。印刷会社はもう、なんでもコンピュータ、になってしまった。さっきも言いましたが、唯一、印刷機械の現場だけはコンピュータを使いませんけど、それもオンデマンド印刷の時代になったらコンピュータになっちゃうんですよね。コンピュータなしでは何もできない。それでは、出版の方はどうか。これも近い将来そうなると思います。それでどうするか、慣れるか、道具と割り切るか、惚れ込むか、ということなんですが。あの、今ね、惚れ込んでる人が多いんですよ。コンピュータに惚れ込んでる人に対して、及び腰の体勢ではつきあい切れませんよ。こういう人たちが21世紀の印刷・出版をやる、そういう領分はあります。マルチメディア出版なんていうのはまさにこの人たちのためにある。 そうでない人、これはもう道具と割り切る、道具と割り切って使うしかない。鉛筆を使えない人、いやワープロを使えない人って今、もう少ないと思います。これはもう、道具としてみんな使っている。同じようにコンピュータも道具として割り切って使うしかないと思います。どうしたって、コンピュータ使わなきゃ仕事ができないと、出版でもじきにそうなります。まずは電子メール使えなきゃ仕事ができないという時代はすごく近いですよ。たとえば。20年前ファックス使えなきゃ仕事にならなくなると思いましたか。でも、もうファックス使えなきゃ出版・印刷で仕事できないですね。それと同じです。

そういうときにとことん道具として割り切るというのが、必要な方向じゃないかと思います。惚れ込むのは惚れ込むで、いいと思います。好きでたまらない、アル中みたいなコンピュータ依存症になってる人は多いです。そういう人とは道具としてしか使わない人では差は付きますよ。そういう人たちの文化ってのがこれからできてきます。インターネットなんかではそうですね。コンピュータにつながってると世界が広がっていく感じがする、世界に連結されてる感じがするわけです。そういう人たちは、もう別の文明を築いていきますから、そうでないなら、とにかく道具として割り切って使っていくしかないんだと思います。



出版の近未来




TeXの方法論。

まずTeXの方法論ということからはじめましょう。正しい発音はテッハ、バッハのハと同じです。日本人はこの発音が難しいので、テフ、あるいはテックというのがしゃれていることになっています。これはある本の一ページを取り出したものですね。これはTeX組みです。TeXというのは、DTPソフトの一種といってもいいんですが、とにかく徹底的にスタイル組みです。つまり、文書のスタイルと文字テキストとを完全に分けているんです。例えばこれのソースというのは、……こういうものなんです。一番最初に、どういう本を作るかの宣言だけをしてるんですね。その次にチャプター、章の始めだよという、これも宣言だけしている。ところが本文を何ポイントで組むとかいう具体的な情報はないんです。それで、それをどういう風に組むのか、さっきの聚珍社のマニュアルのように、どう組むのかというのは別に作るんですね。別個に作ることで、例えばこのまったく同じテキストを、縦組みにする、二段組にする、ということが一瞬でできてしまう。いちばん上に一行、このスタイルで組みなさいと、書いてやるだけです。そのスタイルとはどういうものかは、別にスタイルファイルを作る、定義を与えるわけです。このやり方は実はSGML、今、全世界で、特にお役所なんかで使っています、それと同じ構造化記述言語なのです。文章の構造を記述しておいてスタイルは別に指定するやり方です。これがこれからの、組版の未来の一つのあり方じゃないかと思います。例えば出版社、この出版社のスタイルというのを細かく設定しておく、別の本はこのスタイルというように作っておく。これは印刷会社はだいぶ楽になりますね。現在、SGMLにしてもHTMLにしても、考え方はみな、これですね。テキストとスタイルを分ける考え。スタイルをがっちり設定しておいて、中身はそれに流し込んでいく。こうすることで、組み版のコストダウンがはかれるでしょうし、マルチメディア展開もやりやすくなる。21世紀はこれがおそらくかなりの意味を持ってくる。



マルチメディアと出版。

マルチメディアと出版、これは、さっき言いました、コンピュータに惚れ込んでる人に任せましょう。もうちょっと考えられないようなことを次から次と考えてくれてます。今の若者が新聞を読まなくなった、本も読まない。テレビを見ているのかというとそうでもない、テレビゲームをやっているんですね。テレビゲームというのが一つの文化になってしまった。これが娯楽の大きな時間を占めている。おそらくテレビゲームは新しい文化になっていくでしょう。漫画というのは20年、30年前には子供のものとしてさげすまれていたのが、今は文化論なんかも出て、サブカルチャーとして偉大な領域を占めています。20年もすれば、テレビゲームで育った人たちがこれを文明論、文化論として扱うようになる。じゃ、テレビゲームを出版社がやるか、そんなことはできませんね。マルチメディアとしたら、さっきの『新潮文庫の100冊』。こういうものはありうるでしょう。ほかにどういうものが考えられるか、これは企業努力だと思います。印刷・出版のノウハウをどう生かしていくのか、これを考える。いろいろ出ているマルチメディア本もそういう出版のノウハウなしに作っているからひどいんですよ。ほとんどのものは文字を読むに堪えないですね。近頃は百科事典のCD-ROM化がすごいですね。もう、百科事典は新規に出版されることはないといわれてます。もうCD-ROMの形でしか出せないだろうと言う人もいます。ところが、これがひどい。私もいくつか見ましたけど、使い勝手は悪いし、組版もひどい、非常に読みにくい。こういうものはやはり出版の印刷のノウハウを持った人が再構成していくことが必要なんじゃないでしょうか。



学術誌の急速なペーパーレス化。

それと、ペーパーレス化ということですが、遠い未来のように思ってたんですが、今年になって……今年ですよ、ペーパーレス化が現実問題になってきましたね。何かというと学術誌なんですよ。まずインターネット、これはご存じのように学術ネットワークから始まってますから、特に理科系の場合、学者さんは自分の研究の最新の成果はインターネットで公開することが多いんです。だから学術誌に載るより、インターネットの方が早く同業の研究者に読んでもらえる。今は、もうこのほうが有効になっちゃったんですね。結果的に学術誌より、インターネットの方が価値があるとまでいわれだしました。アメリカでは二、三年前からですが、日本では今年になって急にそれが言われだしたんです。紙の学術誌はもう必要ないんじゃないかといいだしてるんですね。おそらくこうなるんじゃないですか。論文は電子メールで投稿されます。それで、レフェリーをする。たぶんこれも電子メールでしょう。この論文は学会のホームページに載せていいかと偉い先生に判断をあおぐわけですね。その結果、載せるに値するとなったら、その論文をホームページに載せて、学術誌に発表されたのと同じステイタスを与えてしまう。こういうことになってきてるんです。完全なペーパーレスです。

なぜ今年になって急にそれを言い出したか、これ、例の補正予算がらみなんですね。こういう話は前から研究者の若手の間では出てたんですね。ところが今年、景気刺激の補正予算16兆円の金を使わなきゃならなくなったんですね、橋本政権が。しかし、世間の風向きではゼネコンにばらまくことはできない。情報通信関連で何か使えるところはないかと捜したら、学会誌が情報化したがってるというのをどこかで聞いたんでしょうね。それで、急に予算が付いたんです。情報通信関連、インターネット、学術情報の国際化、これみんな今の日本が欠けてると言われて久しいものです。情報通信関連だったら金を出そうという話に今年急になっちゃった。びっくりするほど、あちこちから、本をやめてインターネットにするのにどうしたらいいか、そういう話を伺ってます。急激です。去年までそういう話は、将来はあるかもしれないと思っていたのですが突然でしたね。この動きが進んでくれば、下手をすると、書籍のかなりの部分が消滅するんでは、と思います。特に専門書ですね。学術専門書は今500部ほどしか売れませんから、出版社へ持っていっても、文部省の補助金を貰ってきてくださいと突っぱねられる。それだったらもう、インターネットで発表すればいいや、ということになりますね。この情勢が進んでくると、本なんか出さなくていいという風潮になるという可能性が高い。



すべてはインターネットに通ず。

要するにインターネットに載せてしまえば、今まで本という流通媒体が持っていた意味がなくなるのではないか。本って今まで何のためにあったかというと、著者の思いを読者に伝えるためにあった。著者が大声出しても、限られているけど、本という形にすれば遠く離れている人や、未来の人にも語りかけることができる。逆に言うと声を遠くへ伝えるには本という形態を取らざるを得なかったわけなんだけれども、今インターネットという新しい媒体ができたために、遠くの人へ情報を届けるためという枠組は本の独占ではなくなってしまった。今や、全世界どこへいっても、ま、アフリカの奥へいけばわかりませんけど、いわゆる先進国、本屋のある町で、インターネットのない町はないです。

この間、1993年度のノーベル生理学賞を誰が貰ったか知りたいと言ってこられました。百科事典引いてもわかりません。で、インターネットでノーベル・プライズとやってヤフーで検索かけたら、一瞬で出てきました。すぐわかりました。また、この前もどこそこの町の地図が見たいといってインターネットで調べたら、詳しい詳しい地図が出てきました。それから、私どもは全世界の文字をやれるといってるんですが、この間タイ語をやることになったけれども、タイ語のフォントがなかった。それで、ヤフーでどっかにタイ語のフォントがないかと検索したら、あったんですね。タイの大学でした、大学でタイ語のフォントを無料で配布してました。それをダウンロードしてきて印刷に使った。全世界で何でもインターネットを通じて手に入るという時代がどんどん現実化してきました。

おそらくCD-ROMも過渡的な形態だというのはそこですね。この『新潮文庫の100冊』にしても、新潮社のホームページに置いておけばいいわけで、誰もこんなもの買う必要なくなるということです。今はインターネットで金が払えない、金が取れないという問題がありますが、これも時間の問題ですから。電子マネー、電子商取引というのがさかんにもてはやされています。そういうものが機能し始めると、情報関連、文字関連、情報を文字に落とすということに関しては、すべてインターネットで事足りてしまうというふうな時代になって来るんじゃないかと思います。21世紀初頭、あと10年ぐらいで。すべてはインターネットに通ず。そこで、インターネットの時代に編集・出版という立場で何をするのか。さっきもいいました電子出版、学術誌のペーパーレス化にしても、その論文を持ってきて、読んで、それを読みやすい形に加工して提示するという作業は、これ、編集ですね。ですからインターネットの編集業として残る可能性は一つあります。



未来に残す「本」というもの。

インターネットになります、CD-ROMになります。果たして本はなくなるか。なくならんと思います。一つは、すべての人がインターネットを通じて情報を得るようになるのにあと何年かかるか。この間聞いたんですが、全世界で、電話をかけたことがない人がどれくらいいるか、電話ですよ。おそらく40億人はいるだろうと……。つまり全世界のうち電話をかけたことのある人は実は三分の一にすぎない。電話を見たこともないという人がおそらく半分ぐらいいるんじゃないか。電気も来ていない、水道もないというところはまだまだたくさんある。そういうところへ本が来るよりも先にインターネットが来るかというと、そんなことはないですね。まず本の形で文明というのは入っていくだろう、そういう形では一つ残りますね。それと、やはりインターネットというのははかないですね。刹那的ですよ。あっという間に消えてしまう。インターネットはそのときそのとき情報が完結すればそれでいいということで、残らないですよ。なんにも。だから未来に残すというために本というものは残っていくと思います。

うちの親父は言語学の関係が好きで、言語学の本をいろいろ持ってました。その中に「Linguistic Survey of India」という英国で出された本があります。19世紀の中頃です。ものすごく、いい本です。革装で、中も当時の組版技術の最高水準を極めた、よくこれまでの組版を19世紀に、百何十年も前にやったなという素晴らしい組版です。しかもこれインドの言語事情を調べた本なんですね。当時、植民地でしたから、インドのことは徹底的に調べる必要があったのでしょう。で、インドの言語ですから、インドの文字がいっぱい出てくる。インドの文字というのはデーバナガリ文字とかですね、テルグーとかタミールなど複雑怪奇なものです。それが全部印刷されている。こんなもの日本では今、とっても印刷できません。そんなものが19世紀の半ばに出ている。これを親父は大事にしてました。亡くなって、私は……寄付しましたけどね。本というのはそういうふうに永続的な価値というのを持ってますね。だから、理科系の学会誌みたいに刹那的な、今が大事、一分でも速い方がいいというものはインターネットでいい。未来に残っていくものは、本のほうがいいじゃないか。本だったら千年もつことはわかってます。今ここで本を作ったら千年後にも残っていく。ところがインターネットで刹那的に作って千年たって残ってるかといったら残るはずがない。21世紀になって、1990年代の中頃にインターネットの文明が興ったということを、インターネットを通じて知ることができるか、できないと思いますね。

一方では、さっきのオンデマンド印刷によって、少部数出版というのが可能になります。逆に大部数出版の意味はなくなっていくと思います。たくさんの本をたくさんの人にばらまくという情報配布手段は、インターネットが普及すればなくなっていく。特に通販がそうですね。今、通信販売はカタログをいっぱい作って印刷会社のお得意さんになってます。あれはもういらなくなりますね。あれ、壮大な紙の無駄ですからね。そういう大部数のものはなくなる。

それと今問題なのは紙自体がこれからなくなるということです。今、日本というのは全世界で紙の消費量が二番目か三番目、三番目ですね。二番目は中国です。ところが、中国には日本の人口の十倍いますから、今一人当たりの消費量は日本の十分の一ですね。これはおそるべき話でこれから中国で日本と同じだけ紙を使うようになれば、今の十倍の紙がいるんですね。インドもそうなってくる。地球温暖化で、森林は切れなくなってきてますから、もうそうすると大量に消費する紙というのは、これから使えなくなるんじゃないかと。これから紙というのは非常に高くなる可能性があるし、自然保護の観点からも紙を大量に使うことは嫌われる可能性がある。このことが、マルチメディア化を逆の形で推進していくという可能性はあります。でもやはり、未来に残すようなものは少部数であろうともとにかく作らなきゃならない。そうしないとインターネットは刹那的ですから、極端な話、核戦争一発ありゃインターネットなんて吹っ飛んじゃいますからね。だから、千年後に残す意味のあるものを作っていかなきゃならない。そういう意味のあるものを、コンピュータを使ってでも紙の上に残しておく。そうでない大量消費の刹那的なものはすべてインターネットに食い散らかされます。新聞がもう、余命幾ばくもないんじゃないかといわれてますね。これはどうなるかわかりません。10年前にも、新聞はニューメディアの発達でなくなると予言した人がいて、大恥をかいてますからね。

どうなるかわかりませんが、でも、最後には、貴重な紙を残すに足る、いい本を作ろうと、いい組版をしようと、いうことでこの話を終わりたいと思います。どうも皆様ありがとうございました。

注1

「マツタケ縦組行組版仕様」……QuarkXPress を使用して、文学書籍、文科系学術書 などの高度な組版を実現するためのマニュアル。漢字字体、禁則処理、ルビつけなど 各方面にわたり、「JIS X 4051」と写研の電算写植機SAPCOL のマニュアルを勘案し つつ、規定したもの。DTP作業及び校正時の手引きであるとともに、awk スクリプト による自動処理のロジックともなる。聚珍社では、ルビ処理を除く大半の条項が自動 処理により可能となっている。


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